金丸惣八
江戸時代後期から明治時代の武士、治水家
金丸 惣八(かねまる そうはち、文政8年5月5日(1825年6月20日) - 明治31年(1898年)8月8日)は、江戸時代後期から明治時代の武士、治水家。
略歴
編集文政8年(1825年)5月5日、日向国児湯郡柳瀬(現・宮崎県新富町(旧・新田〔にゅうた〕村))に佐土原藩士・金丸景住の長男として生まれた。
20代から佐土原藩の井出方、里山方などの役職を務め、水利に精通。安政3年(1856年)、家老曽小川実に随行し諸国の藩政を視察後、水利事業を起こして水田を開くことの急務を感じ、藩主・島津忠寛に建白した。忠寛は大変喜び、水田を造る工事の許可を与え、惣八に事業の監督にあたらせ、新田100町歩余(約100ha)を得た。
文久3年(1863年)には 薩英戦争のため、磯(鹿児島市)台場後方に出陣した。なお、戦後処理にあたり、薩摩藩と英国との仲介役は江戸幕府と佐土原藩であった。
さらに、郷里の柳瀬地区が水田に乏しい窮状を救うため、唐栗瀬に堰の建設を計画した。この事業では用地買収、費用の捻出に苦労したが、忠寛の援助によって明治2年(1870年)に着工し、川幅270mの一ツ瀬川に堅固な堰を築き、約4kmの用水路(金丸井堰)を完成させた。これによって250町歩(250ha)以上に潅水し、柳瀬地区は米の産出地となった。
この他、製塩の指導、挿し木の献策、製糖・樟脳事業などがあり、新富町ではその功績をたたえ記念碑を建て、毎年、祭祀を行っている。明治31年(1898年)8月8日、74歳で死去。
参考文献
編集- 『宮崎県大百科事典』宮崎日日新聞社宮崎県大百科事典刊行委員会、1983年、187頁
- 『大正四年宮崎県大観復刻版』図書出版青潮社、1984年、159-160頁