金仲麟
金仲麟(キム・ジュンリン、1923年12月7日 - 2010年4月28日)は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の政治家。朝鮮労働党中央委員会政治局委員、中央人民委員会委員、朝鮮労働党党書記(対南担当)、朝鮮労働党統一戦線部部長などを歴任。 対南工作担当書記として、工作活動に従事した[1]。
金仲麟 김중린 | |
---|---|
生年月日 | 1923年12月7日 |
出生地 | 日本統治下朝鮮平安北道碧潼郡 |
没年月日 | 2010年4月28日(86歳没) |
死没地 | 朝鮮民主主義人民共和国 |
出身校 | 中央党学校 |
所属政党 | 朝鮮労働党 |
称号 | 金日成勲章 |
最高人民会議代議員 | |
当選回数 | 9回 |
在任期間 | 1962年10月 - 2010年4月28日 |
最高指導者 |
金日成(1948年 - 1994年) 金正日(1994年 - 2011年) |
その他の職歴 | |
朝鮮労働党中央委員会政治局委員 (1970年11月 - 不明) | |
中央人民委員会委員 (1972年12月 - 不明) | |
朝鮮労働党書記(対南担当) (1969年4月 - 1975年 1978年1月 - 1985年1月 1988年11月 - 2010年4月28日) |
金仲麟 | |
---|---|
各種表記 | |
チョソングル: | 김중린 |
漢字: | 金仲麟 |
発音: | キム・ジュンリン |
英語表記: | Kim Jung-rin |
経歴
編集1924年に平安北道碧潼郡で生まれる[2]。1945年まで中国で共産主義運動に参加した[2]。1947年に中央党学校を卒業すると[2]、地方の党役職に就く[2]。1953年にマルクス・レーニン主義学院卒業[2]。1958年に朝鮮労働党の党文化部長になる[2]。1961年に朝鮮労働党中央委員会委員候補に選出され[2]、1962年10月より最高人民会議代議員を務める[2]。1969年4月に党書記(対南担当)になる[2]。1970年に党中央委員会政治局委員に選出された[2]。1975年に金正日によって行われた工作部門の査察によって、工作資金を無駄にしていたことが発覚[1]。金正日から叱責され、南朝鮮研究所所長に左遷された[3]。1977年11月に朝鮮労働党統一戦線部部長になる。1980年10月に党中央委員会政治局委員に[2]、1980年10月に党書記(対南担当)に復帰した[2]。韓国に対する対南工作(ラングーン爆弾テロ事件)に失敗して一時期、失脚した。1986年8月に朝鮮中央通信社の社長になる[4]。1988年11月に党書記(勤労団体担当)として復帰する[2]。2010年4月28日に心筋梗塞のため死去[2]。