メインメニューを開く

鎌倉将軍一覧

ウィキメディアの一覧記事
鎌倉将軍から転送)

鎌倉将軍一覧(かまくらしょうぐんいちらん)では、鎌倉幕府征夷大将軍の一覧を示す。

概要編集

一般的には、征夷大将軍の地位は鎌倉殿(鎌倉幕府の長)の地位を公的に担保するもの、と考えられている。

だが征夷大将軍はもとは源頼朝鎮守府将軍である奥州藤原氏を凌駕する官職として望んだもので、鎌倉殿の本質的属性ではなかった。実際、2代目鎌倉殿となった源頼家が征夷大将軍職に就いたのは家督相続から3年後であり、源実朝の死後に鎌倉殿となった藤原頼経も征夷大将軍職に就いたのは鎌倉下向から7年後であって(鎌倉幕府公式記録「吾妻鏡」では実朝死去後から北条政子が6年間鎌倉殿だったとしている)、その間は征夷大将軍職が空席であったが、「鎌倉殿」であることは変わらず、特に問題とされなかった。

源実朝が暗殺されたあと頼朝の子孫(源氏将軍)が絶え、京都朝廷に対抗し、有力御家人たちを抑えられるだけの高貴な血統の出身者が必要とされたことから、初めは摂関家の子弟(摂家将軍)、次いで皇族宮将軍・親王将軍)が京都から迎えられて将軍職に就いたが、すでに実権は北条氏が握っており、将軍は名目的存在となった。

ただし、形の上では将軍はあくまでも幕府の長であり、全ての御家人の主君であることから、御家人たちに対して一定の求心力を持ち続け、これを警戒した北条氏は、幼少の将軍を迎えては成人すると解任して京都に送還するということを幕末まで繰り返した。

北条氏が幕府内では将軍を遥かに凌駕する権力を握り、また朝廷に対しては将軍職任命を容易に強要できるだけの実力を持ちながら自らは将軍にならなかったのは、もとは伊豆の一介の小豪族に過ぎない出自の低さのため、仮に将軍職に就いても、有力御家人たちの心服を得ることは難しかったためとされる。

一覧編集

  • 氏名、院号、墓所は50音順ソート
  • 官位は位の高い順にソート
氏名 肖像 院号 官位 在職 期間 出身家 享年 墓所
1 みなもとのよりとも
源頼朝
 
  無しまたは不明/- 1-02-00/正二位
05/権大納言
1192-/

建久3年7月12日 (1192年)
- 建久10年1月13日 (1199年)

06年 6か月 河内源氏 53 おおくらほつけとう/大倉法華堂
白旗神社
2 みなもとのよりいえ
源頼家
 
  ほつけいん/法華院 1-02-00/正二位
06/左衛門督
1202-/

建仁2年7月22日 (1202年)
- 建仁3年9月7日 (1203年)

01年 2か月 河内源氏 23 しゆせんし/修禅寺
3 みなもとのさねとも
源実朝
 
  たいしし/大慈寺 1-02-00/正二位
03/右大臣
1203-/

建仁3年9月7日 (1203年)
- 建保7年1月27日 (1219年)

15年 4か月 河内源氏 28 しゆふくし/寿福寺
白旗神社
4 ふじわらのよりつね
藤原頼経
 
  無しまたは不明/- 1-02-00/正二位
05/権大納言
1226-/

嘉禄2年1月27日 (1226年)
- 寛元2年4月28日 (1244年)

18年 03か月 藤原氏
(九条家)
39 無しまたは不明/-
5 ふじわらのよりつぐ
藤原頼嗣
 
無しまたは不明/- 1-03-10/従三位
左近衛中将
1244-/

寛元2年4月28日 (1244年)
 - 建長4年2月20日 (1252年)

07年 10か月 藤原氏
(九条家)
18 無しまたは不明/-
6 むねたかしんのう
宗尊親王
 
無しまたは不明/- 0-01/一品
中務卿
1252-/

建長4年4月1日 (1252年)
- 文永3年7月20日 (1266年)

14年 3か月 皇族 33 無しまたは不明/-
7 これやすしんのう
惟康親王
 
無しまたは不明/- 0-02/正二位
中納言右近衛大将
二品
1266-/

文永3年7月24日 (1266年)
- 正応2年9月14日 (1289年)

23年 2か月 皇族 63 無しまたは不明/-
8 ひさあきらしんのう
久明親王
 
無しまたは不明/- 0-01/一品
式部卿
1289-/

正応2年10月9日 (1289年)
- 徳治3年8月4日 (1308年)

18年 10か月 皇族 53 無しまたは不明/-
9 もりくにしんのう
守邦親王
 
無しまたは不明/- 0-02/二品 1308-/

延慶元年8月10日 (1308年)
- 元弘3年5月22日 (1333年)

24年 9か月 皇族 33 無しまたは不明/-

関連項目編集