長孫 覧(ちょうそん らん、生没年不詳)は、中国西魏からにかけての政治家軍人は休因。本貫河南郡洛陽県長孫稚の孫にあたる。

経歴編集

長孫紹遠の子として生まれた。西魏の大統年間、東宮親信を初任とした。北周明帝のとき、大都督となった。武帝が魯公だったころ、長孫覧と仲が良かった。武帝が即位すると、ますます礼遇されるようになり、車騎大将軍に任ぜられた。

かれの口弁は達者で、声気は雄壮、述べるところは官僚たちの注目を浴び、武帝も感嘆した。長孫覧はもとの名を善といったが、武帝が「朕は万機を卿の先覧に委ねたい」と言ったことから、覧の名を賜った。宇文護が殺害されると、長孫覧は功績により薛国公に進んだ。後に小司空をつとめた。北斉が平定されると、位は柱国に進み、次男の長孫寛が管国公に封ぜられた。宣帝のとき、位は上柱国・大司徒に進んだ。同州刺史・涇州刺史を歴任した。580年楊堅が丞相となると、宜州刺史に転じた。

582年、隋軍が南朝を攻撃すると、長孫覧は東南道行軍元帥となり、8総管を率いて寿陽を出て、水陸両進した。隋軍の進軍は長江の線に達した。たまたま陳の宣帝が死去したため、長孫覧はこれに乗じて一挙に陳を滅ぼそうと考えたが、監軍の高熲が「礼により喪中にある軍は討たない」と言ったので、帰還した。

あるとき文帝(楊堅)が長孫覧と安徳王楊雄元諧・李充・高熲・虞慶則賀若弼らとともに宴会を催した。このとき文帝は「朕と公の間柄は、義は君臣であるが、恩は父子のようであった」と長孫覧に言った。蜀王楊秀は長孫覧の娘を妃に迎えた。その後、長孫覧は母の喪のため職を去った。1年あまりして復職した。涇州刺史として出向して治績を挙げた。在官のまま死去した。

子の長孫洪が後を嗣ぎ、宋順臨三州刺史・司農少卿・北平郡太守を歴任した。

伝記資料編集

  • 隋書』巻五十一 列伝第十六
  • 北史』巻二十二 列伝第十