長尚連

日本の江戸時代中期の武士。加賀藩士長元連長男で、長家24代当主(加賀八家長氏4代当主)。従五位下大隅守

長 尚連(ちょう ひさつら)は、加賀藩年寄。加賀八家長家第4代当主。

 
長尚連
時代 江戸時代
生誕 寛文2年10月11日1662年11月21日
死没 元禄16年9月16日1703年10月26日[1]
改名 千松(幼名)[1]→時連[1]→尚連
別名 九郎左衛門(通称
官位 従五位下、大隅[1]
主君 前田綱紀
加賀藩年寄
氏族 長氏
父母 父:長元連、母:永原孝政の娘[2]
兄弟 尚連、連房
正室:恭(前田綱紀養女、前田利意の娘)[1]
養子:高連
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生涯

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寛文2年(1662年)、前田家家老長連頼の嫡男元連の長男として生まれる[1]。寛文7年(1667年)8月、父元連が浦野事件に連座して、藩主前田綱紀の命で廃嫡となったため、祖父連頼の継嗣となる[1]

寛文11年(1671年)10月、祖父連頼の死去により嫡孫承祖し、3万3000石の相続が許された[1]。同時に鹿島半郡を藩に収められ、代わって他の家臣同様に加賀藩領内に散在する采地を与えられ、居を金沢に移した。長家は、長連龍織田信長から鹿島半郡を与えられた経緯から、加賀藩の中で例外的に給人の知行地支配が許されていたが、これによりその特権を喪失することとなった。新しい采地は改作法が導入されており、実収が大幅に減ることを考慮され、弟連房にも別に新知1000石が与えられた[1][3]

貞享2年(1685年)3月、藩主綱紀の養女恭姫を娶り、1000石の化粧田を授かる[1]。貞享3年(1686年)11月13日、人持組頭(七手頭)となる。元禄6年(1693年)、時連から尚連に改めた。これは、主君前田家の先祖菅原道真大宰府に左遷させた藤原時平の「時」の字を忌んだためである。元禄9年(1696年)正月、従五位下大隅守に叙任[1]。同年8月11日、御大老に任じられる。

元禄16年(1703年)9月16日没[1]。家督は弟連房の次男高連が養子となって相続した。

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l 長連三 1893, p.11
  2. ^ 長連三 1893, p.10
  3. ^ 。寛文12年(1672年)、加賀藩が鹿島半郡に改作法による検地を実施した結果、長氏支配時代の3万1000石から5万5千石となった。従って実質的には倍近い増税となった

参考文献

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