長沼宗政

鎌倉時代前期の武将・御家人。長沼氏・皆川氏の祖。長沼氏初代。淡路守。鎌倉幕府 摂津・淡路守護。小山政光の次男。

長沼 宗政(ながぬま むねまさ)は、鎌倉時代前期の武将御家人長沼氏皆川氏の祖。

 
長沼宗政
時代 鎌倉時代前期
生誕 応保2年(1162年
死没 仁治元年11月19日1241年1月2日
別名 五郎
墓所 栃木県真岡市長沼
官位 淡路守[1]
幕府 鎌倉幕府 摂津淡路守護
主君 源頼朝頼家実朝
氏族 藤原北家秀郷小山氏長沼氏
父母 父:小山政光
兄弟 小山朝政吉見朝信宗政結城朝光久下重光島田政照
養兄弟:吉見頼経
宇都宮頼綱宇都宮業綱子)
時宗
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生涯編集

応保2年(1162年)、下野国の有力豪族小山政光の次男[2]として誕生。

寿永2年(1183年)、志田義広野木宮合戦で討ち、その後は源頼朝に従って平家追討に従軍した。文治5年(1189年)9月、頼朝の奥州合戦に随行。頼朝から信濃国善光寺地頭職を与えられたが、承元4年(1210年)8月に改替。正治2年(1200年)11月、美濃国大榑荘の地頭職を得た。その後、建仁3年(1203年)の比企能員の変元久2年(1205年)の畠山重忠の乱北条氏方として従っている。

建暦3年(1213年)9月、元久2年(1205年)の畠山重忠の乱で討たれた畠山重忠の末子で日光に住む重慶が謀反を企てるとの報が届くと、将軍源実朝は宗政に生け捕りを命じるが、宗政は重慶の首を斬り帰参した。実朝は「重忠は罪無く誅をこうむった。その末子が隠謀を企んで何の不思議が有ろうか。命じた通りにまずその身を生け捕り参れば、ここで沙汰を定めるのに、命を奪ってしまった。粗忽の儀が罪である」と述べると嘆息し、宗政の出仕を止める。それ伝え聞いた宗政は眼を怒らし「この件は叛逆の企てに疑い無し。生け捕って参れば、女等の申し出によって必ず許しの沙汰が有ると考え、首を梟した。今後このような事があれば、忠節を軽んじて誰が困ろうか」「当代は、蹴鞠を以って業と為し、武芸は廃るるに似たり、女性を以って宗と為し、勇士はこれなきごとし。また没収の地は、勲功の族に充てられず。多く以て青女等に賜う」と述べた(『吾妻鏡』建暦三年(1213年)九月二十六日条)[3][4]。閏9月16日、兄・小山朝政の申請により実朝は宗政を許した。

承久3年(1221年)の承久の乱にも従軍した。その直後、摂津国守護職・摂津藍荘地頭職を得て、更に淡路国守護職、淡路笑原保・上田保地頭職を給与され、国守・守護を兼帯して淡路を支配した。摂津国守護職はその後に改易されたが、淡路国守護職は鎌倉時代末期まで長沼氏に相伝され、貞応2年(1223年)には淡路の大田文まで作成された。寛喜2年(1230年)8月に嫡子・時宗に譲与した所領は、本領の長沼荘・下野御厨別当職・淡路守護職を始めとして、武蔵国陸奥国・美濃・美作国備後国などの諸国に及ぶものだった。

仁治元年(1240年)11月19日に下野長沼荘[5]で死去。享年79。

人物編集

吾妻鏡』によると、些細なことでしばしば激昂するとても気性の荒い人物であったと伝えられており、問題発言も度々発したとされ、「荒言悪口の者」と評されている[6]

「当家の武勇はすべて自分に帰するものだ」と公言して憚らず(『吾妻鏡』正治二年(1200年)二月六日条)、海道十五カ国の民間の無礼を糺すためと称して頼朝から弓を賜ったことを面目としていた。

画像集編集

関連作品編集


脚注編集

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  1. ^ 関幸彦・野口実編 2008, p. 128.
  2. ^ 吉見朝信(次郎・三郎)という兄がいるために『長沼系図』では三男としている。
  3. ^ 野口実 2001.
  4. ^ 関幸彦・野口実編 2008, pp. 128–129.
  5. ^ 栃木県真岡市
  6. ^ 佐藤和彦・谷口榮編 2007, p. 146.

参考文献編集

  • 河野守弘 『下野国誌全二十冊 下野長沼同盟会蔵』関東史料研究会、1975年。 
  • 野口実 『伝説の将軍 藤原秀郷』吉川弘文館、2001年。 
  • 平野邦雄・瀬野精一郎編 編 『日本古代中世人名辞典』吉川弘文館、2006年。 
  • 関幸彦・野口実編 編 『吾妻鏡必携』吉川弘文館、2008年。ISBN 978-4-642-07991-4 
  • 佐藤和彦・谷口榮編 編 『吾妻鏡事典』東京堂出版、2007年。ISBN 978-4-490-10723-4