青木正寛
青木 正寛(あおき まさひろ、寛永9年(1632年)[1] - 宝永3年11月28日(1707年1月1日))は江戸時代前期から中期の甲府藩士。初めは大井氏で後に大井氏系青木氏の当主。諱は正寛。通称は甚平。父は大井昌輝(理兵衛)。母は大井昌義(長右衛門)の娘。正室は小長谷重次(九郎左衛門)の娘。養子は青木正教(平岡道賢(源兵衛)の子)。
生涯
編集江戸幕府旗本の大井昌輝の二男にあたる。父の昌輝は青木正定(小右衛門)の二男で大井昌義の養子となり、のちに分家した人物である。正寛は慶安4年(1651年)に召し出されて甲府徳川家の徳川綱重附となり、分家して父の実家の青木姓を称する。
甲府藩では小姓組、小納戸、小姓組組頭となり、その後隠居する。
宝永3年11月28日(1707年1月1日)に死去。法名は日恵。市谷の蓮秀寺。実子なく家督は養子で平岡道賢(源兵衛)の3男である正教が継ぐ。
脚注
編集参考文献
編集- 『新訂寛政重修諸家譜 第3』(続群書類従完成会、編集顧問、高柳光寿、岡山泰四、斎木一馬、1964年)
- 寛政重修諸家譜 巻百五十二
- 寛政重修諸家譜 巻百六十二