(きょう)は、春秋時代諸侯国

国姓 姫姓
爵位 あるいは
国都 鞏(河南省鄭州市鞏義市孝義街道康店村)
分封者 不詳
始祖 不詳
滅亡原因 により滅亡
史書の記載春秋左氏伝昭公二十六年
世本』氏姓篇
周朝諸侯国一覧
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位置

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鞏の都城の遺跡は現在の河南省鄭州市鞏義市孝義街道の西約3キロメートルの康店村一帯にある。そのため鞏王城と呼ばれる。鞏の北面には黄河、西辺には洛水、東辺には虎牢関、南辺には嵩山がある。鞏は天然の要害でもあった。

歴史

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鞏は「周室卿采邑国」。鞏の国君は鞏伯紀元前516年によって滅亡した。

滅亡後

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晋は鞏を滅ぼすと、鞏の領域は「周王畿の地」に属しているため、周王室に献上された。

戦国時代、周朝は東周西周国の2国に分裂した。の2国はこの形成を利用した。東周公は鞏王城を首都として立国した(東周国)。東周国は実際にはの附庸国であり、紀元前247年呂不韋によって滅亡した(東周の滅亡)。鞏の地は秦王政により三川郡に編入された。

史書の記載

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君主

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脚注

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