音韻規則
音韻規則(おんいんきそく、phonological rule)は、言語における体系的な音韻論・形態音韻論過程、または通時的な音変化を表現するための形式的手段である。一般には生成音韻論で、人間の脳が口頭言語を生成・理解する際、音に関してどのような操作や計算を行うかを捉える概念として用いられる。音韻規則の記述には、音声記号か弁別的素性、もしくはその両方を用いることがある。
ジョン・ゴールドスミス(1995)は「2つの異なる音声表示レベル(ここでは抽象/基底レベルと表層レベル)間の写像」と定義し[1]、またブルース・ヘイズ(2009)は「音声の環境による発音され方の違いを"一般化"したもの」と表している[2]。つまり音韻規則とは、話者の脳に記憶された音声の抽象表示から、その話者が実際に話すときの発音に至るまでの過程を説明したものである。一般に音韻規則は、音声の基底表示(話者の心に記憶された音素)を起点とし、最終的には表層形式(実際の発音)を生み出す[3]。基底形式が複数の表層形式を有する場合はしばしば異音と称される。例えば、英語における複数形は-sと表記されるが、その発音は[s](例:"cats")、[z](例:"cabs", "peas")、[əz](例:"buses")のいずれかになりうる。これらの形式は、理論的にはいずれも同じ-sとして心に記憶されているが、一連の音韻規則を経てさまざまな表層レベルの発音が派生してくるのである[4]。
例
編集アメリカ英語の多くの方言では、歯茎破裂音/t/・/d/がはじき音([ɾ])に変化するフラッピングという過程が見られる(例:"butter" ([ˈbʌɾɹ]), "notable" ([ˈnoʊɾəbl]))[注釈 1]。はじき音への変化は、/t/・/d/が2つの母音間にあり、かつ前者の母音が強勢、後者の母音が非強勢である場合に限られる。音韻規則の表記においては、可能な限り一般的な方式で、形式上の書き換え規則を用いるのが通例であるため、上記のフラッピングは次のように定式化される。
書式と表記法
編集前節に示したフラッピングの音韻規則は、「どの音が変化するか」「なんの音へと変化するか」「その変化はどこで起きるか(どのような環境がその変化を引き起こすのか)」を表している。下記は、当該の音韻規則を注釈つきで説明したものである。
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左から右へ通して読むと、フラッピングの音韻規則を示した上述の表記法は、「任意の歯茎破裂音(/t/・/d/)は、強勢母音の直後かつ非強勢母音の直前に位置する環境下において、はじき音([ɾ])に変化する」ことを述べているとわかる。
音韻規則の記述にはしばしば弁別的素性が用いられるが、この弁別的素性は一般に、音声の音響的・調音的性質を示す自然的(生得的)特徴であると考えられている[注釈 3]。このとき、ある特定の素性の束(マトリックス)を選び出すことによって、ともに自然類を形成し、音韻規則の中でパターンをなすような音声の集合を示すことが可能である[8]。例えば先述の音韻規則においても、音韻学の分野では/t/と/d/を別個に扱うのではなく、/t/・/d/に共通の素性をもって記述を行うことがある。この際に捉えるのは個別の音声ではなく、「破裂音であり、かつ舌を歯茎に接触させて発する音声の集合」全体である。最も一般的な素性の記述体系を用いると、発音時における調音方法および舌の位置と形状に基づいて、/t/・/d/の音声は[+delayed release, +anterior, -distributed](遅延的開放性あり、前方性あり、広域性なし)という素性で表せる[9]。ただし、音韻形式は常に素性で記述されるわけではなく、特に単一の音声を適用対象とする際には、国際音声記号を用いる場合もある[10]。
特徴
編集ヘイズ(2009)は、すべての音韻規則が持つ共通の特徴として以下を挙げている[11]。
- 言語固有性:ある言語に存在する音韻規則が別の言語には存在しないことがある。また当該言語においてさえ、同じ音韻規則がすべての方言に存在するとは限らない。
- 生産性:新語であっても音韻規則は適用される。例えば、英語話者に無意味語の"wug"を複数形("wugs")にして発音するよう求めると、今までにその語の使用経験がなくとも、複数語尾のsは[s]ではなく[z]と発音される(この種のテストはワグ・テストと呼ばれる)。
- 自然会得的かつ無意識的:話者は音韻規則を適用しているという意識を有していない。また、明確に教わることがなくとも、人生の早い段階から音韻規則を身につけている。
- 直感的:音韻規則により、話者はどの語が「適格」で「容認可能」なのかを直感することができる。一方、当該言語の音韻規則にそぐわない語を耳にした際には、異国語のようであるか不適格である風に感じられる。
類型
編集音韻規則は、以下のような4つの類型に大別される。
- 同化:ある音声が素性のひとつを変化させ、隣接する音声との類似性を高める場合。先述の英語複数形規則において、先行する子音が有声であるか否かに応じて、-sが有声または無声になるような類のものである。
- 異化:ある音声が素性のひとつを変化させ、隣接する音声との類似性を低くする場合。通常、2つの音声をより区別しやすくするために行われる。母語以外の言語を話す際、音声の対比をつけることが難しい場合などにしばしば見られる[12]。
- 挿入:2つの音声間に別の音声が加わる場合。英語複数形規則においても生じるもので、例えば"bus"に複数形態素のzがつく場合、"bus-z"は多くの英語話者にとって発音不能と見なされるため、[s]と[z]の間には短母音(シュワー:[ə])が挿入される。
- 脱落:非強勢音節や弱子音のような音声が発音されない場合。例えば、アメリカ英語話者の多くが"handbag"の[d]を発音しないようなもの。
音韻規則の順序づけ
編集ジェンセンによると、ある特定の音韻規則を適用して生じた音韻的・形態的形式が、まったく異なる音韻規則を引き起こし、 結果として不適切な表層形式が現れる場合には、音韻規則に順序を与えることが必要になるという[13]。
順序づけの類型
編集音韻規則A、Bがあり、両者が等しく妥当な規則であるならば、それらは下記カテゴリーのいずれかに従って順序づけられる[14]。
- フィーディング(「給餌」順序):Aを適用することにより、Bの適用機会が設けられる。
- ブリーディング(「流血」順序):Aを適用することにより、Bの適用が阻害される。
- 逆フィーディング:Bを適用することにより、Aの適用機会が設けられる。
- 逆ブリーディング:Bを適用することにより、Aの適用が阻害される。
派生過程
編集2つの音韻規則間に明確な順序が求められる場合には、その派生過程を示さなければならない。派生過程には、音韻規則を適切な順序で適用して可能な音声表示が現れる過程、および逆の順序で適用して不適切な音声表示が生じる反例、これら2つの構成要素が必要である[15][13]。
派生過程の例
編集以下はジェンセンが示した派生過程の例で、ロシア語における音韻規則の順序づけを表したものである[13]。ここでは、音韻規則1→2の順序で適用される、下記2つの音韻規則が与えられているものとする。
- ___#(L脱落:/l/が任意の子音直後かつ語末にある場合はゼロ音素になる(脱落する))[13]
- ___ #(語末子音の無声化:共鳴性(sonorant)を欠く音声(阻害音)が語末に位置する場合は有声性(voice)を失う(無声音になる))[16]
- /#greb+l#/(基層表示)
- greb(L脱落を適用)
- grep(語末子音の無声化を適用)
- [grep*=](適切な音声表示)
- /#greb+l#/(基層表示)
- ------(語末子音の無声化を適用)
- greb(L脱落を適用)
- *[greb](不適切な音声表示)
表記法の拡張
編集音韻規則それ自身の意図は、ある言語における音変化を包括的に述べることである。しかしながらほとんどの場合、音変化の方式は言語間で一様ではない。形式的分析に際しては、多様な音変化をできるだけ簡略に説明するため、先述の表記法に加えて、さらなる表記上の約束事を実装する必要がしばしば生じる[17]。
- 下付き記号:ある音素のタイプがいくつ生じるのかを示す[17]。
- は、 個以上の子音が生じることを示す(ただし )。
- は、 個以上の母音が生じることを示す(ただし )。
- 語境界:語の左右の境界を示す。境界はハッシュタグ記号で表し、境界の間に完全な文字列を入れる[17]。
- 例えば#cat#という表記において、冒頭と末尾のハッシュタグはそれぞれ、"cat"という語の始まりと終わりを示している。
脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ Goldsmith 1995:2.
- ^ Hayes 2009:26.
- ^ Idsardi, William James (2 September 2003). “LING 101: Phonology”. University of Delaware. pp. A Rule of English. March 5, 2009時点のオリジナルよりアーカイブ。7 March 2009閲覧。
- ^ Idsardi, William James (2 September 2003). “LING 101: Phonology”. University of Delaware. pp. The pronunciation of the English plural. March 5, 2009時点のオリジナルよりアーカイブ。7 March 2009閲覧。
- ^ a b Hayes 2009, p. 28.
- ^ Bale & Reiss 2018.
- ^ Mielke, Jeff (2005). “Ambivalence and ambiguity in laterals and nasals”. Phonology 22 (2): 193. doi:10.1017/S0952675705000539.
- ^ Hayes 2009:71.
- ^ Hayes 2009, pp. 79, 84–85.
- ^ Hayes 2009, p. 92.
- ^ Hayes 2009, pp. 26–7.
- ^ Schramm, Andreas (17 March 2001). “Lesson 9.2: Phonological Rules”. Hamline University. 7 March 2009閲覧。
- ^ a b c d e f g Jensen, John T. (John Tillotson) (2004). Principles of Generative Phonology: An Introduction. Amsterdam: J. Benjamins. pp. 156. ISBN 978-90-272-7517-2. OCLC 769188823
- ^ The Handbook of Phonological Theory. Goldsmith, John A., 1951-, Riggle, Jason., Yu, Alan C. L. (2nd ed.). Chichester, West Sussex, UK: Wiley-Blackwell. (2011). pp. 41. ISBN 978-1-4443-4306-9. OCLC 758478759
- ^ Chomsky, Noam. (1991). The Sound Pattern of English. Halle, Morris. (1st MIT Press pbk. ed.). Cambridge, Mass.: MIT Press. pp. 60. ISBN 0-262-03179-5. OCLC 778785348
- ^ Jensen, John T. (John Tillotson) (2004). Principles of Generative Phonology: An Introduction. Amsterdam: J. Benjamins. pp. 116. ISBN 978-90-272-7517-2. OCLC 769188823
- ^ a b c d Chomsky, Noam. (1991). The Sound Pattern of English. Halle, Morris. (1st MIT Press pbk. ed.). Cambridge, Mass.: MIT Press. pp. 61, 367. ISBN 0-262-03179-5. OCLC 778785348
- ^ a b Chomsky, Noam. (1991). The Sound Pattern of English. Halle, Morris. (1st MIT Press pbk. ed.). Cambridge, Mass.: MIT Press. pp. 77. ISBN 0-262-03179-5. OCLC 778785348
参考文献
編集- Bale, Alan; Reiss, Charles (2018). Phonology: A formal introduction. MIT Press
- Goldsmith, John A. (1995). “Phonological Theory”. In John A. Goldsmith. The Handbook of Phonological Theory. Blackwell Handbooks in Linguistics. Blackwell Publishers
- Hayes, Bruce (2009). Introductory Phonology. Blackwell Textbooks in Linguistics. Wiley-Blackwell. ISBN 978-1-4051-8411-3