頼尊

南北朝時代の富士山の修験者。平忠頼の三男。富士正別当。村山三坊の祖。子に平常貞、平頼貞(土屋郷住)。子孫は中村氏

頼尊(らいそん)は、南北朝時代富士山の修験者。駿河国富士郡の人物。

略歴

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『駿河国新風土記』の富士山条には以下のようにある。

村山口なる三坊の修験を始富士山伏といふものみな小角の故事にならふとて富士行と唱ふることをなす(略)頼尊よりまさしく富士行と云ことも始りしにや、今に至りて富士行は此人を祖とす

このことから富士山興法寺を拠点として活動した修験者とされ、富士行を始めた人物としても知られる。村山修験に深く関わる人物である。

富士氏の系図である「富士大宮司系図」に頼尊の名があり、富士大宮司である富士直時の従弟であるとされる。またその名の下記に「富士正別当 村山三坊等ノ祖」とあり、村山三坊の祖とされている人物である。『駿河国新風土記』には他に「原田村妙善寺観音堂梁牌に文保元丁巳十一月十一日大発願主頼尊とみえたれば文保年中の人なり」ともあり富士直時の活動時期と一致することから[1]、文保年間(1317年-1319年)には存命の人物とされる[2]

村山浅間神社の社伝によると、村山の地に「富士根本宮」と称される浅間社を建立し、大棟梁権現を総鎮守としたという。そして寺号を「興法寺」としたという[3]。また宝永7年(1710年)「東泉院代々記録」に「自妙行頼尊大僧正エ相伝スト見エタリ」とあり、浄土院(東泉院の前身)の住持であったと伝えられている [4]

その他にも諸説が多く、『駿河志料』には東泉院の開祖を継ぐ人物の後を継いだ人物とある。また千葉氏の系図には、平忠頼の子であり平忠常とは兄弟関係にあると見えるという。子に平常遠

脚注

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  1. ^ 大高康正、「中世後期の富士山表口村山と修験道」『富士山信仰と修験道』、岩田書院、2013
  2. ^ 大高康正「東泉院旧蔵「冨士山縁起」諸本の翻刻と解題」、富士市立博物館
  3. ^ 『浅間神社の歴史』、822-823
  4. ^ 山本倫弘、「快印以前の東泉院住持の変遷 ―武田氏の駿河支配の影響―」、『富士山かぐや姫ミュージアム館報』No.31、2016

参考文献

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  • 平野栄次、『富士浅間信仰』、雄山閣(初版は1987年、その後2007年にPOD版を出版)
  • 宮地直一、『浅間神社の歴史』、名著出版、1973年(初版は古今書院から1929年に刊行)
  • 富士宮市教育委員会、『元富士大宮司館跡』、2000年
  • 浅間神社社務所編、『浅間文書纂』、名著刊行会、1973年

関連項目

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