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饗庭 氏直(あえば うじなお/うじただ、建武2年(1335年)- 没年不明)は、南北朝時代武将足利尊氏の側近くに仕えた寵臣命鶴丸(みょうづるまる)として知られ、『太平記』では「容貌当代無双の児」と評されている。当初の諱は直宣であったが[1]、尊氏より偏諱を受けて尊宣を名乗る[2]。『園太暦』では氏直としている[2]

 
饗庭氏直
時代 南北朝時代
生誕 建武2年(1335年
死没 不明
改名 尊宣(氏直)
別名 命鶴丸、命鶴
官位 将監弾正少弼
主君 足利尊氏足利義詮足利義満
氏族 饗庭氏

生涯編集

饗庭氏は三河国饗庭御厨を根拠地とする武士で、大中臣氏本姓とする[3]

『太平記』流布本の記述では生年は建武2年(1335年)と推定される[4]正平3年/ 貞和4年(1348年)、諏訪神社で行われた笠懸の射手を勤めたことが史料上の初見となる[4]。以降尊氏の近習として重要な使者や取次を勤めた。薩埵山合戦では部隊を率い、尊氏から感状を下されている[5]

正平6年/観応2年(1351年)1月、尊氏と争った直義との和平交渉に当たっている。正平7年/文和元年(1352年)の武蔵野合戦では、僅か18歳にして三番隊六千人を率いた。その部隊はいずれも美しく飾り立てた鎧をまとい、梅の花を兜の真っ向に指していたため『花一揆』と呼ばれた。『太平記』では花一揆が思慮のない戦をしたために児玉党に追い散らされたと記述されている[6]

正平9年/文和3年(1354年)、元服を行い尊氏の偏諱を受け「尊宣」と名乗り、五位近衛将監弾正少弼に叙任された[2]。正平11年/文和5年(1356年)には斯波高経の降参を働きかけ、高経を帯同して降参を実現している[7]。正平13年/延文3年(1358年)に尊氏が没すると出家し、以降は「尊宣入道」と呼ばれた[7]。その後は斯波氏に近い動きを見せ、正平21年/貞治5年(1366年)に高経が失脚すると、連座を恐れて越前に没落したという風聞が立っている。その後京都に復帰したと見られ、弘和3年/永徳3年(1383年)3月2日、足利義満に近侍している記事が最後の記録となる[8]

優れた歌人でもあり[9]、『新後拾遺和歌集』にその作品が残る。

脚注編集

  1. ^ 風雅和歌集』では「大中臣直宣 五位 弾正少弼 命鶴丸」と記載されている(小林輝久彦, p. 157)。
  2. ^ a b c 小林輝久彦, p. 160.
  3. ^ 小林輝久彦, p. 156-158.
  4. ^ a b 小林輝久彦, p. 158-159.
  5. ^ 小林輝久彦, p. 159-160.
  6. ^ 小林輝久彦, p. 159.
  7. ^ a b 小林輝久彦, p. 161.
  8. ^ 小林輝久彦, p. 162.
  9. ^ 小林輝久彦, p. 154.

出典編集