足利義詮

室町幕府の第2代将軍

足利 義詮(あしかが よしあきら)は、室町時代南北朝時代)の室町幕府第2代征夷大将軍(在任 : 延文3年(1358年)12月8日-貞治6年(1367年)12月7日)[4]。初代将軍足利尊氏の三男[注釈 1]。母は鎌倉幕府最後の執権北条守時の妹で正室・赤橋登子(登子の子としては長男)。姓名は源義詮である

 
足利 義詮
神護寺三像より伝藤原光能像。義詮像とする説もある。
時代 鎌倉時代末期→室町時代前期(南北朝時代中期)
生誕 元徳2年6月18日1330年7月4日
死没 貞治6年12月7日1367年12月28日[1]
改名 千寿王(幼名)→義詮
別名 坊門殿
戒名 宝筐院殿道権瑞山[2]
墓所 神奈川県鎌倉市浄妙寺光明院[3]
神奈川県鎌倉市瑞泉寺[3]
神奈川県鎌倉市円覚寺黄梅院[3]
京都府京都市右京区嵯峨野宝筐院
静岡県三島市川原ヶ谷宝鏡院
官位 従五位下、左馬頭従四位下、左近衛中将従三位征夷大将軍正二位、権大納言従一位左大臣
幕府 鎌倉幕府室町幕府 第2代征夷大将軍
主君 足利尊氏後光厳天皇
氏族 足利氏足利将軍家
父母 父:足利尊氏、母:赤橋登子
兄弟 竹若丸直冬義詮基氏鶴王ほか
正室:渋川幸子
側室:紀良子
千寿王義満満詮柏庭清祖廷用宗器宝鏡寺殿
テンプレートを表示

生涯

編集

幼少時から将軍就任まで

編集

元徳2年(1330年)6月18日に誕生[5]。父は足利尊氏(当時は高氏)、母は鎌倉幕府の執権であった赤橋守時の妹登子[6]。幼名は千寿王[7]。義詮が誕生した時には既に兄が二人いたが、登子が尊氏の正妻であったため、義詮が嫡男にされたと考えられている[8][7]

正慶2年(1333年)、伯耆国船上山にて挙兵した後醍醐上皇討伐のために父・高氏が鎌倉幕府軍の総大将として上洛した際、母・登子とともに北条家の人質として鎌倉へ留め置かれた[8]。高氏が丹波国で幕府に反旗を翻し、京都六波羅探題を攻略した時には、幼い千寿王(義詮)は足利家家臣に連れ出され鎌倉を脱出し、父の名代として新田義貞の軍勢に合流し鎌倉攻めに参加した[9][6]。有力御家人であった足利氏の嫡男千寿王の参加は、関東で様子を窺っていた東国武士の参戦を促したとされる[9][10]。鎌倉幕府の滅亡後も細川和氏、同頼春、同師氏などの支えを得て鎌倉に滞在し戦後処理にあたった[11][12]。この時、新田義貞との間でその主導権争いがあったとされる[11][13]建武の新政では、叔父の直義に支えられて鎌倉に置かれ、尊氏が建武政権から離反すると、父とともに南朝と戦い、主に鎌倉において関東を統治した。建武2年(1335年)4月7日に千寿王は従五位下に叙されており、この頃には清和源氏の通字である「義」字を上の一字に用い、「義詮」と名付けられていたと考えられている[14]

貞和5年(1349年)8月、かねてより足利直義と対立していた高師直がクーデターを起こし直義が失脚、その際の直義と師直との和約には、直義から義詮への政務の移譲が盛り込まれた(観応の擾乱[15]。そのため義詮は同年10月に鎌倉から上洛し、直義が政務を行っていた三条坊門第に入った[16]。当初直義と義詮との共同執政が予定されていたが、師直の圧力により直義は政務を完全に義詮へ譲ることとなった[17]。この時期、義詮は所務沙汰(所領裁判)関係の下知状と御判御教書を発給しており、直義から所務相論の裁許権を引き継いだと考えられている[18]

直義はその後、京都を出て挙兵し、観応2年(正平6年/1351年)2月には高一族が殺害された[19]。このとき義詮は、京都を離れ尊氏や師直のもとへ合流している[20]。直義は幕政に復帰し義詮とともに政務を担うようになるが、義詮との関係は良くなかったとされる[20]。同年8月1日には直義は北国へ逃れ、その後鎌倉に入った[21]観応2年(正平6年/1351年)11月には、尊氏が直義派に対抗するため南朝に降伏し鎌倉へ向かい、年号を南朝の「正平」に統一する正平一統が行われる[22]。義詮は南朝との交渉に積極的に関わり、南朝への降伏に近い和睦条件に不満な尊氏を説得し、和議の成立に貢献したとされる[23][24][注釈 2]。義詮は尊氏が鎌倉へ直義追討に出向く間、京都の留守を任せられた[26]

翌年閏2月に和議を破棄した南朝方の北畠親房楠木正儀らが京都へ侵攻すると、義詮は京を逃れて近江国へ避難した結果、北朝光厳光明崇光の3上皇および廃太子の直仁親王を奪われた[27]。義詮は観応の年号を復活させるとともに南朝の和議破棄を喧伝し、兵を募って京都を奪還した[28]。しかし、南朝に連れ去られた三上皇および直仁親王の帰還は絶望的であったため、義詮は皇位を指名する資格を持つ上皇と三種の神器のない状態のなか、広義門院(西園寺寧子)を治天の君にみたて無理に皇嗣を指名させ、新たに後光厳天皇の即位を実現させた[29][30]。また、文和2年(1353年)6月、南朝に下った異母兄足利直冬が上洛、義詮は後光厳と共に美濃小島に逃れるも、同年9月、鎌倉から帰還した尊氏と合流し、京都を奪還している[31][32]文和4年(1355年)1月にも直冬山名時氏らを中心とする南朝勢力が上洛、義詮は播磨に出陣中であったが、近江に逃れた尊氏と共に京の直冬勢力を挟撃、ひと月ほどの戦闘で直冬に勝利した[33]

将軍就任後

編集
 
足利義詮像(『古画類聚』)。等持院の木像を模写したもの

延文3年(1358年)4月30日に尊氏が没し、12月に義詮は征夷大将軍に任命される[34][35]。この頃には中国地方山名氏大内氏などが向背定まらず、九州では懐良親王などの南朝勢力は健在であった[36]。一方幕府内では、延文6年(1361年)に細川清氏などの諸武将と対立した仁木義長が南朝へ降り[37][38]、さらに執事(管領)の清氏までもが佐々木道誉の讒言のために離反して南朝へ降るなど権力抗争が絶えず、その隙を突いて南朝方が一時京都を奪還するなど政権は流動的であった[39][38]。細川清氏や畠山国清が滅ぼされた後[40]貞治元年(1362年)7月には清氏の失脚以来空席となっていた執事(管領)職に斯波義将を任命した[41]。延文3年8月22日には、紀良子のもとで後に3代将軍となる義満が誕生している[42]

貞治2年(1363年)春には大内弘世山名時氏が幕府に帰参し中国地方がほぼ平定され、政権は安定化しはじめる[43][44]。そのほか仁木義長や桃井氏石塔頼房も幕府に帰参し、貞和4年8月ごろには南朝との講和も進んでいた[45][46][47]。同年、義詮の執奏により、勅撰和歌集の19番目にあたる『新拾遺和歌集』の撰進を命じる後光厳天皇綸旨が二条為明に下された[48]貞治4年(1365年)2月には三条坊門万里小路の新邸に移っている[49]。この間に義詮は訴訟制度の整備に着手し、評定衆・引付衆を縮小して将軍の親裁権の拡大を図った(御前沙汰)。

貞治元年(1362年)7月、義詮は足利一門最高の家格であった斯波氏から斯波義将を執事に就任させた[50][注釈 3]。斯波執事時代には、引付などの幕府機構や、幕府財政の再建が行われ、将軍権力の回復が目指されたとされる[52][53]。しかし、貞治5年8月になると、義詮は近江国守護の佐々木氏頼を京に呼び、その他諸将にも高経討伐の命を出し、斯波高経に対して京から退去するよう命じた[54]。その結果、高経は義将のほか幕府の要職に就いていた一族を引き連れ越前に没落した[54]貞治の政変)。高経没落の背景には、佐々木道誉を中心とする有力大名による勢力争いや、当時高経と対立していた興福寺による圧力が関係していたとされる[55][56]。義詮は高経の没落後、幕府内で高経派の吏僚を改替し、斯波氏によって押妨されていた寺社本所領を返付するなど、寺社本所領保護政策を進めた[57][58][59]

斯波氏の没落後、義詮は貞治6年(1367年)9月に讃岐国から細川頼之を上洛させた[60]。同年11月、側室紀良子との間に生まれた幼少の嫡男・義満を細川頼之に託し(この時に頼之は管領に任ぜられた)、12月7日に病により死去した[60]。享年38[2]なお、同年4月26日には弟の基氏が義詮に先立って死去している[60]

死の間際、天龍寺春屋妙葩等持寺黙庵周諭が盥漱などの心身を清める仏事を行い、義詮を看取った(義堂周信『空華老師日用工夫集』[3])。遺骨は神奈川県鎌倉市浄妙寺光明院に納められ、神奈川県鎌倉市瑞泉寺および神奈川県鎌倉市円覚寺黄梅院も分骨を許可された(『空華老師日用工夫集』[3])。その他の寺は義詮の遺命にないとして分骨を許可されなかった(『空華老師日用工夫集』[3])。なお、京都府京都市右京区嵯峨野の善入山宝筐院および静岡県三島市の宝鏡院にも墓標が存在するが、史実としては不明である。

通称と邸宅

編集

三条坊門に邸宅を営んだため「坊門殿」と呼ばれた。また、室町季顕から「花亭」を買い受け別邸とした。のちに「花亭」は足利家より崇光上皇に献上され仙洞御所となったが、第3代将軍義満は再び皇室から「花亭」を譲り受け御所とした。世にいう花の御所である。

官歴

編集

※日付=旧暦

西暦 南朝 北朝 月日 内容
1335年 建武2年 4月7日 従五位下に叙す。
1344年 興国5年 康永3年 3月16日 正五位下に昇叙。
3月18日 左馬頭に任官。
1347年 正平2年 貞和3年 12月3日 従四位下に昇叙。
1350年 正平5年 観応元年 8月22日 参議に補任し、左近衛中将を兼任。
1356年 正平11年 延文元年 8月23日 従三位に昇叙。参議左近衛中将如元。
1359年 正平13年 延文3年 12月18日 征夷大将軍宣下
1359年 正平14年 延文4年 2月4日 武蔵守兼任。
1363年 正平18年 貞治2年 1月28日 大納言に転任。
7月29日 従二位に昇叙。権大納言如元。
1367年 正平22年 貞治6年 1月5日 正二位に昇叙。
12月7日 薨去。
1368年 正平22年 貞治6年 12月20日 従一位左大臣

墓所・肖像画・木像

編集
墓所
諡名は宝筐院殿。法名は瑞山道権[61]。墓所は嵯峨宝筐院[62]。また、静岡県三島市川原ケ谷の地福山宝鏡院にも義詮のものと伝える位牌がある[63]。足利将軍家と仏教寺院の関わりを研究している研究者の高鳥廉によれば、元々義詮の香火所(祖先の墓碑を安置する菩提所)は存在してなかったが、足利義政の時代にかつて義詮が崇敬する黙庵周諭がいた善入寺(観林寺)が注目され、足利将軍家の庇護と引換に善入寺の施設が義詮の香火所に転用され、寺名も宝筐院と改称されたとされる[64]
肖像画
宝筐院本(束帯姿。重要文化財
記録上では義詮の画像はいくつか確認できるが、現在そう言い伝えられている作品は、これ以外ほとんど無い。同作品が発見され義詮像とされたのは意外に新しく、戦後になって日本史学者の赤松俊秀によって紹介されてからである[65]。しかし、宝筐院本の面貌表現を比較すると、等持院像やあるいは伝光能像よりも、安国寺にある尊氏像との共通性が感じられる。また、宝筐院は幕末に一時全くの廃寺になり、義詮像は大正8年(1917年)に宝筐院が再興された時に他からもたらされた蓋然性が高いことから、宝筐院本は義詮ではなく尊氏像である可能性が指摘されている[66]
また、美術史学者の米倉迪夫は、神護寺三像国宝)の一つ「伝藤原光能像」について、足利義詮像とする説を唱えている。伝光能像の容貌が等持院像に酷似しており、共通の紙型を元に制作された可能性が高いことが根拠である[67][68]。また日本中世史家の黒田日出男は、米倉の論旨や当時の政治状況をふまえて、神護寺三像のうち特にセット性が明瞭な伝源頼朝像と伝平重盛像がそれぞれ足利直義像と足利尊氏像とすると、残りの伝光能像は義詮像としか考えられない、と論じている[69]
木像
等持院像、鑁阿寺像、瑞泉寺[70]
等持院像は、幕末尊皇攘夷派により尊氏・義満の木像と合わせて三条河原に梟首されたことで知られる(足利三代木像梟首事件)。

人物

編集
 
足利義詮木像(等持院

古典『太平記』では、他者の口車に乗りやすく酒色に溺れた愚鈍な人物として描かれているが、実際には父の尊氏が不在の際に半済令を発して武家の経済力を確保する一方、異母兄の直冬からの侵攻により幕府が窮地に陥った際も、神南の戦いから京都市中での合戦でこれを破るなど、内政や軍略で功績を残している。さらに細川清氏の失脚や斯波氏の一時失脚(貞治の変)に乗じて、守護勢力を抑制し中央の将軍権力を高めるなどの政治力も発揮している。また義詮時代に大内弘世山名時氏ら有力守護をはじめ、仁木義長や桃井直常石塔頼房も幕府に帰参しており、その治世に南北朝動乱をほぼ終熄させて幕府政治に安定をもたらしたことも無視できない。奥州には石橋棟義を、九州には斯波氏経渋川義行を派遣したが、九州平定は実現しなかった。『太平記』は、義詮が没し細川頼之が管領に就任する章(巻第三十七)で物語を終えている。

尊氏同様に文人でもあり、連歌和歌が多く後世に伝わっている他、貞治6年(1367年)3月には京都の新玉津島神社において新玉津島社歌合を開いている。また、尾道天寧寺を建立した。

正室は足利一族の渋川幸子であるが、彼女との間に生まれた男子は早逝している。その後しばらく子に恵まれず、跡継ぎを得たいためか不明であるが、公家の娘や天皇に仕える女官など多くの女性と交わり、義詮は腎虚になって寿命を縮めたと言われている。

伝説

編集

楠木正行との関係

編集

義詮の遺言に「自分の逝去後、かねており敬慕していた観林寺(現在の善入山宝筐院)の楠木正行楠木正成の長男で「小楠公」と尊称される)の墓の傍らで眠らせ給え」とあり、遺言どおり正行の墓(五輪石塔)の隣に墓(宝筐印塔)が建てられた、という伝説がある。

これは永和3年(1377年)4月に宝篋院第二世院主の呉渓が記したと称する記事に基づく[3]。しかし、南北朝時代を専門とする研究者藤田精一は、以下の点からこの伝説に疑問を投げかけている[3]

  • 記事の文体書風が南北朝時代のものと合わず、呉渓本人の著とは考えられない[3]
  • 自称呉渓の記事では楠木正行が正平3年(1348年)1月5日に黙庵周諭(宝篋院第一世院主)に参禅し、その翌日(6日)に戦死したとするが、史実としては1月5日中に四條畷の戦いで戦死しており、日付が一致しない[3]
  • 義詮が黙庵を崇敬しており、死の間際に何か後事を託したのは一次史料から確認できる(義堂周信『空華老師日用工夫集』[3])。ただし、自称呉渓の記事では、死のずっと前のある日、たまたま義詮と黙庵が正行の話題に及んだのを、黙庵が義詮の死後に思い出して遺言を実行したとしており、史実と状況が一致しない[3]
  • そもそも義詮の遺骨が納められたのは鎌倉浄妙寺光明院である(『空華老師日用工夫集』[3])。他に鎌倉瑞泉寺円覚寺黄梅院は分骨を許可されたが、それ以外の寺は遺命にないとして分骨を却下されている(『空華老師日用工夫集』[3])。従って、善入山宝筐院に足利義詮の遺骨は存在しない。

ただ、足利将軍家楠木氏を敬慕していたのは、足利氏寄りの史書『梅松論』で楠木正成が「賢才武略の士」として英雄視されていることなどから事実である。義詮が第一世院主の黙庵を崇敬していたこともあり、そうした経緯からこの伝説が生じた可能性はある。


系譜

編集
足利義詮の系譜
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
16. 足利頼氏
 
 
 
 
 
 
 
8. 足利家時
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
17. 上杉重房
 
 
 
 
 
 
 
4. 足利貞氏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
18. 北条時茂
 
 
 
 
 
 
 
9. 北条時茂の娘
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
2. 足利尊氏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
20. 上杉重房
 
 
 
 
 
 
 
10. 上杉頼重
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
5. 上杉清子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1. 足利義詮
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
24. 北条長時
 
 
 
 
 
 
 
12. 北条義宗
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
6. 北条久時
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
3. 赤橋登子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


義詮の偏諱を受けた人物

編集
「義」の字
「詮」の字
(補足)
  • 「義」の字は、足利氏の祖先にあたる清和源氏通字であり、統治にあたってその子孫であることを示す意図があったものとみられ、子の以降の足利将軍家でも代々用いられるようになった。なお、室町時代においては、この字が与えられることは破格の待遇を意味していた。
  • 「詮」の読み方について、義詮とその子である満詮は「あきら」、その他の人物は「あき」と読まれる。また、後者では「のり」と読まれることもある。
  • 年代的にほぼ同時代の人物であることから、上記のほか、斯波斯波兄弟[注釈 4]畠山畠山(二本松)国二本松氏畠山国氏の子)や京極高二階堂行(行良)など(諱の2文字目に用いている人物)も義詮から偏諱を受けた者と考えられるが、確証はない。

足利義詮が登場する作品

編集
テレビドラマ

脚注

編集

注釈

編集
  1. ^ 足利竹若丸、足利直冬という2人の庶兄に次いで三男とされる。
  2. ^ この講和により北朝の崇光天皇、皇太子直仁親王が廃された[25]
  3. ^ この時、義将は13歳であり、実際の職務は父の高経が握った[51]
  4. ^ 孫の義淳の時代において「斯波氏は代々『』の字を与えられる」(『満済准后日記』)と明確に述べられていることや、兄の氏経氏頼足利尊氏(義詮の父)、年齢的に割と近い甥(兄の子)の詮経・詮将が足利義詮、義将の子の義重や義種の子の満種満理足利義満(義詮の子)から1字を受けていることからほぼ確実とみられる。

出典

編集
  1. ^ 足利義詮』 - コトバンク
  2. ^ a b 瀬野 2005, p. 177.
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n 藤田精一楠氏研究』(増訂四)積善館、1938年、204–206頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1915593/204 
  4. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰『コンサイス日本人名辞典』(第5版) 三省堂、2009年 32頁。
  5. ^ 吉田賢司 2017, p. 43.
  6. ^ a b 吉田賢司 2017, p. 46.
  7. ^ a b 岡野友彦 2018, p. 35.
  8. ^ a b 三山進 1975, p. 62.
  9. ^ a b 三山進 1975, p. 63.
  10. ^ 岡野友彦 2018, pp. 36–37.
  11. ^ a b 三山進 1975, p. 64.
  12. ^ 岡野友彦 2018, p. 37.
  13. ^ 岡野友彦 2018, pp. 37–38.
  14. ^ 水野 2014, p. 60.
  15. ^ 佐藤進一 1974, pp. 242–243.
  16. ^ 吉田賢司 2017, pp. 47–48.
  17. ^ 佐藤進一 1974, p. 244.
  18. ^ 森茂暁 1986, pp. 54–55.
  19. ^ 佐藤進一 1974, p. 247.
  20. ^ a b 吉田賢司 2017, p. 49.
  21. ^ 佐藤進一 1974, pp. 257–260.
  22. ^ 佐藤進一 1974, pp. 261–263.
  23. ^ 佐藤進一 1974, p. 264.
  24. ^ 吉田賢司 2017, pp. 50–53.
  25. ^ 佐藤進一 1974, p. 266.
  26. ^ 吉田賢司 2017, p. 54.
  27. ^ 佐藤進一 1974, p. 271.
  28. ^ 佐藤進一 1974, p. 272.
  29. ^ 佐藤進一 1974, pp. 275–276.
  30. ^ 吉田賢司 2017, pp. 54–55.
  31. ^ 佐藤進一 1974, pp. 281–282.
  32. ^ 吉田賢司 2017, p. 57.
  33. ^ 佐藤進一 1974, pp. 286–287.
  34. ^ 佐藤進一 1974, pp. 331–332.
  35. ^ 吉田賢司 2017, p. 63.
  36. ^ 佐藤進一 1974, pp. 317–319, 325–326.
  37. ^ 佐藤進一 1974, pp. 297, 333.
  38. ^ a b 吉田賢司 2017, p. 67.
  39. ^ 佐藤進一 1974, pp. 337–339.
  40. ^ 佐藤進一 1974, pp. 333–334.
  41. ^ 佐藤進一 1974, p. 340.
  42. ^ 臼井信義 1960, p. 11.
  43. ^ 佐藤進一 1974, pp. 345–349.
  44. ^ 吉田賢司 2017, pp. 69–70.
  45. ^ 岡野友彦 2018, p. 45.
  46. ^ 小川信 1980, p. 281.
  47. ^ 松山充宏『中世武士選書49桃井直常とその一族』戎光祥出版、2023年、129-133頁。ISBN 9784864034876 
  48. ^ 井上宗雄『改訂新版 中世歌壇史の研究 南北朝期』明治書院、1987年、613頁。 
  49. ^ 川上貢『日本中世住宅の研究』墨水書房、1967年、209-210頁。 
  50. ^ 佐藤進一 1974, pp. 340–343.
  51. ^ 佐藤進一 1974, p. 344.
  52. ^ 佐藤進一 1974, p. 351.
  53. ^ 吉田賢司 2017, pp. 70–71.
  54. ^ a b 佐藤進一 1974, p. 349.
  55. ^ 佐藤進一 1974, p. 350-351.
  56. ^ 小川信 1980, pp. 444–446.
  57. ^ 佐藤進一 1974, p. 352.
  58. ^ 小川信 1980, p. 446.
  59. ^ 伊藤俊一 2008, p. 80.
  60. ^ a b c 佐藤進一 1974, p. 353.
  61. ^ 平野明夫編 著「室町幕府将軍経歴一覧」、平野明夫 編『室町幕府全将軍・管領列伝』星海社、2018年、519頁。ISBN 9784065136126 
  62. ^ 「嵯峨宝筐院の再興」『禅宗』第24巻第6号、貝葉書院、1917年、63頁。 
  63. ^ 建長寺史編纂委員会 編『建長寺史 末寺編』大本山建長寺、1356-1357頁。 
  64. ^ 「嵯峨宝筐院の成立と泰甫恵通の動向」『仏教史学研究』59巻2号、2017年。 /所収:高鳥『足利将軍家の政治秩序と寺院』吉川弘文館、2022年、245-248頁。ISBN 978-4-642-02976-6 
  65. ^ 赤松俊秀「足利氏の肖像に就いて」『美術研究』52号、東京文化財研究所、1949年。 また同論文は、本画像を紹介すると同時に義詮像として問題なしと論じ、この論旨が広く広まっている。
  66. ^ 米倉迪夫 「足利氏の肖像 --宝筐院蔵足利義詮像を中心に--」(栃木県立博物館発行・編集 『開館三〇周年特別企画展 足利尊氏 その生涯とゆかりの名宝』展図録、2012年。ISBN 978-4-88758-069-5)。
  67. ^ 米倉迪夫『源頼朝像 沈黙の肖像画』平凡社、2006年、163-165頁。ISBN 4582765777 
  68. ^ 米倉迪夫 著「足利氏の肖像 - 神護寺画像から考える -」、峰岸純夫江田郁夫 編『足利尊氏再発見』吉川弘文館、2011年、44-45頁。ISBN 9784642080651 
  69. ^ 黒田日出男『国宝神護寺三像とは何か』角川学芸出版、2012年、305-310頁。ISBN 978-4-04-703509-6 
  70. ^ 三山進「鎌倉の肖像彫刻 ㈡」『金沢文庫研究』第6巻第10号、金沢文庫、1960年、12頁。 
  71. ^ 臼井信義 1960, p. 223.
  72. ^ a b c d e f 臼井信義 1960, pp. 224–228.
  73. ^ 湯之上隆「足利氏の女性たちと比丘尼御所」『日本中世の政治権力と仏教』思文閣出版、2001年。ISBN 4784210717 初出1990年

参考文献

編集
  • 臼井信義『足利義満』吉川弘文館、1960年。 
  • 岡野友彦 著「第二代将軍足利義詮」、平野明夫 編『室町幕府全将軍・管領列伝』星海社、2018年。ISBN 9784065136126 
  • 小川信『足利一門守護発展史の研究』吉川弘文館、1980年。 
  • 佐藤進一『南北朝の内乱』中央公論社〈日本の歴史9〉、1974年。 
  • 瀬野精一郎『足利直冬』吉川弘文館〈人物叢書〉、2005年。ISBN 464205233X 
  • 水野智之『名前と権力の中世史:室町将軍の朝廷戦略』吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー〉、2014年。ISBN 978-4-642-05788-2 
  • 三山進 著「第二代足利義詮」、桑田忠親 編『足利将軍列伝』秋田書店、1975年。 
  • 吉田賢司 著「第二代 足利義詮 – 不屈のリアリスト」、榎原雅治清水克行 編『室町幕府将軍列伝』戎光祥出版、2017年。ISBN 9784864032476 

関連項目

編集