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馬上 孝太郎(もうえ[1] こうたろう、1873年明治6年)1月12日[2] - 1945年昭和20年)5月25日[3])は、日本教育者

馬上 孝太郎
Kotaro Moue.jpg
誕生 (1873-01-12) 1873年1月12日
福島県石城郡小名浜町(現・いわき市
別名 双峰(
死没 (1945-05-25) 1945年5月25日(72歳没)
職業 教育者
国籍 日本の旗 日本
最終学歴 高等師範学校文科
代表作 『教育教授の欠欿』(1909年)
『少女の教育』(1914年)
配偶者 テル
親族 徳十郎(弟)、福寿(弟)、誠司(弟)
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経歴編集

福島県出身。1899年(明治32年)、東京高等師範学校文科を卒業[2]秋田県師範学校教諭、東京高等師範学校舎監・教授、学習院教授、女子学習院教授・学生監を歴任[2]1924年大正13年)より東京高等師範学校教授・附属中学校主事を務め、1941年(昭和16年)に退官した[1]

その他、茗渓会理事長、帝国教育会理事を務めた[1]

著作編集

著書
編書

脚注編集

参考文献編集

  • 人事興信所編『人事興信録 第14版(下)』人事興信所、1943年。
  • 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第13版』帝国秘密探偵社、1939年。
  • 『20世紀日本人名事典』日外アソシエーツ、2004年。

関連文献編集

  • 馬上先生教育功労記念会編纂 『記念志』 馬上先生教育功労記念会、1942年9月
  • 「馬上孝太郎」(茗渓会編 『茗渓人物志』 講談社、1972年5月)
公職
先代:
田中寛一
  東京高等師範学校附属中学校主事
1931年 - 1941年
次代:
森本角蔵
その他の役職
先代:
岡本作次郎
(新設)
茗渓会理事長
1938年 - 1945年
1934年
次代:
田中寛一
岡本作次郎