高柳 覚太郎(たかやなぎ かくたろう、慶応3年10月3日1867年10月29日) - 昭和12年(1937年12月21日[1])は、衆議院議員憲政本党立憲国民党革新倶楽部)、浜松市長

高柳覚太郎

経歴 編集

遠江国敷知郡北庄内村(現在の静岡県浜松市中央区)に、高柳源四郎の長男として生まれる。1890年明治23年)、東京法学院(現在の中央大学)を卒業し、代言人の免許を受け、浜松市で弁護士として活動した[2]

県会議員を経て、1908年(明治41年)の第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、当選回数は4回を数えた。また浜松市会議員、市参事会員としても活動した[3]

1933年(昭和8年)、浜松市長に選ばれ、翌年まで務めた。

脚注 編集

  1. ^ 『衆議院議員略歴』
  2. ^ 『現代日本の政治家』立憲国民党p.28-29
  3. ^ 『人事興信録』

参考文献 編集

  • 細井肇『現代日本の政治家』国光社、1916年。 
  • 人事興信所編『人事興信録 第10版(下)』人事興信所、1934年。 
  • 『第一回乃至第二十回総選挙 衆議院議員略歴』衆議院事務局、1940年。 


公職
先代
中村陸平
  浜松市長
7代:1933年 - 1934年
次代
横光吉規