高倉 殿継(たかくら の とのつぐ)は、奈良時代から平安時代初期にかけての貴族。名は殿嗣とも記される。氏姓高麗朝臣のち高倉朝臣。官位従五位上肥後守

 
高倉殿継
時代 奈良時代 - 平安時代初期
生誕 不明
死没 不明
別名 殿嗣
官位 従五位上肥後守
主君 光仁天皇桓武天皇平城天皇
氏族 高麗朝臣→高倉朝臣
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経歴 編集

宝亀8年(777年)訪日していた渤海使史都蒙の帰国にあたり、殿継は送高麗使に任命された(この時の官位正六位上大学少允)。同年殿継は渤海に渡るが、遠く辺境の地へ漂着して船が破損してしまう。しかし渤海より船2艘を与えられ[1]、翌宝亀9年(778年)9月に張仙寿を随行して帰国し越前国三国港に到着[2]、同年10月には従五位下叙爵された。宝亀10年(779年)同族の高麗福信らと共に高麗朝臣姓から高倉朝臣姓に改姓している。宝亀11年(780年治部少輔に任ぜられる。

桓武朝に入ると、大判事下総介玄蕃頭皇后宮亮大和介主計頭と内外の諸官を歴任する。従五位上に叙せられた後、延暦23年(804年駿河守に転じると、延暦25年(806年)肥後守と、桓武朝末から平城朝にかけて地方官を務めた。

官歴 編集

六国史』による。

脚注 編集

  1. ^ 『続日本紀』宝亀10年正月5日条
  2. ^ 『続日本紀』宝亀9年9月21日条

参考文献 編集