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魏 浚(ぎ しゅん、生年不詳 - 312年)は、西晋の将軍。本貫東郡東阿県

経歴編集

若い頃は関中に居住し、雍州の小吏であった。

河間王司馬顒の乱に際し、武威将軍に任じられた。やがて度支校尉に移ると、才幹を見せたという。

311年5月、流民数百家を従え、河陰の硤石を保った。当時、都の洛陽は相次ぐ軍の侵攻により荒廃していたので、魏浚は穀物を略奪しては懐帝に献上した。この功績により揚威将軍・平陽郡太守に任じられ、引き続き度支校尉も兼務となった。しかし、当時平陽は漢の支配下にあったので、赴任出来なかった。

6月、漢軍が洛陽を陥落させると、魏浚は洛北にある石梁に移り、残った民を集めて慰撫し、また兵器を修繕した。漢に従う者に対してはまず説得に当たり、晋に国運は長久である事からやがて復興すると説き、多数の民を帰順させた。遠方にいる事を頼みとして従わない者には、将兵を派遣して討伐させた。これらによりみな服従し、侵略される事は無くなった。遠近の民はこれに感激し、老人・子供を背負ってでも次第に彼の下に集うようになった。

同月、并州刺史劉琨の承制(皇帝に代わって諸侯や守相を任命する事)により、仮の河南尹に任じられた。当時、太尉荀藩もまた洛陽から逃れ、密県において行台(臨時政府)を立てていたので、魏浚は荀藩のもとを訪れて軍事謀略について諮った。荀藩はこれを喜び、新鄭に割拠する滎陽郡太守李矩もこの軍議に参画させた。李矩はこれに応じて到来し、魏浚らは議論を交わして交流を深め、盟約を結んで帰った。

313年12月、漢の中山王劉曜は魏浚が勢力を保つのを嫌い、軍を率いて石梁を包囲した。兗州刺史劉演河内郡太守郭黙は軍を派遣して魏浚救援に向かったが、劉曜は兵を分けて河北で迎え撃ち、伏兵をもって劉演・郭黙の軍を撃破すると、その騎兵は尽く捕らえられた。魏浚は夜闇に乗じて逃亡を図ったが、劉曜に捕らえられて殺害された。

朝廷より、平西将軍の位を追贈された。族子の魏該が魏浚の勢力を引き継いだ。

伝記資料編集