魏 驥(ぎ き、1374年 - 1471年)は、明代官僚は仲房、は南斎。本貫紹興府蕭山県

生涯 編集

魏希哲の子として生まれた。1406年永楽4年)、進士乙榜に及第し、松江府訓導に任じられた。いつも夜分に茶粥を携えて諸生を労ったので、諸生も発奮して学問成就させる者が多かった。魏驥は南京に召し出されて『永楽大典』の編纂に参加した。書が完成すると、魏驥は松江府に帰任した。1419年(永楽17年)、吏部尚書の師逵の推薦により、太常寺博士に転じた。

1426年宣徳元年)、魏驥は吏部考功員外郎に任じられた。1433年(宣徳7年)、南京太常寺少卿に転じた[1]1438年正統3年)、北京に召し出されて行在吏部左侍郎として試用された。1439年(正統4年)、正式に吏部左侍郎に任じられた。たびたび北京近郊の蝗害の跡を巡視し、民衆の困苦を訊ねてまわった。1443年(正統8年)、礼部左侍郎に転じた。まもなく老齢を理由に致仕を願い出た。吏部尚書の王直が魏驥はまだ衰えていないが、その老齢に配慮して、忙しい仕事から落ち着いた仕事に移すべきであると言上した。そこで魏驥は南京吏部左侍郎に転じた。再び老齢を理由に致仕を願い出たが、許可されなかった。正統年間、王振英宗の寵信をたのみに公卿をしのぐ権勢を振るったが、ひとり魏驥を重んじて、「先生」と呼んだ。1449年(正統14年)、魏驥は南京吏部尚書に進んだ。土木の変により英宗が北方に連行されると、魏驥は諸官を率いて当世の急務を箇条書きで上書し、その多くは施行された。1450年景泰元年)、魏驥はようやく引退が許可されて致仕した。

魏驥は故郷の蕭山の家に寓居したが、蕭山に水害の多いのを心配して、螺山・石巌・畢公の堤防と堰を修築するよう提唱した。1471年成化7年)9月己丑、死去した。享年は98。は文靖といった。著書に『南斎前後集』20巻・『魏文靖摘稿』10巻[2]があった。

子に魏完があった。

脚注 編集

  1. ^ 談遷国榷』巻22
  2. ^ 黄虞稷『千頃堂書目』巻18

参考文献 編集

  • 明史』巻158 列伝第46
  • 吏部尚書文靖魏公墓誌銘(徐紘『明名臣琬琰録』巻9所収)