黒田隆庸

江戸時代中期から後期の筑前福岡藩大老 (1744-1800)

黒田 隆庸(くろだ たかつね)は、江戸時代中期から後期の筑前福岡藩大老三奈木黒田家の第8代当主。初名は一庸

 
黒田隆庸
時代 江戸時代
生誕 延享元年(1744年
死没 寛政12年9月4日1800年10月21日
改名 一庸→隆庸
別名 通称:甚太夫、源左衛門、美作
主君 黒田継高治之治高斉隆斉清
福岡藩大老
氏族 黒田氏三奈木黒田家
父母 父:黒田一誠
兄弟 一興隆庸、一敦
黒田清定
養子:清定
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生涯

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延享元年(1744年)、福岡藩大老黒田一誠の子として生まれる。宝暦12年(1762年)9月、兄一興の死去により家督を相続する。

明和7年(1770年)、藩主となった黒田治之が初入国し、領内を巡見した。一庸は、藩主巡見中の農作業を停止を農民に命じていたが、そのことを知った治之より、巡見中も農作業を止めないよう命じられた。

安永3年(1774年)8月、治之の命で通称を源左衛門から美作と改めた。安永6年(1777年)、前藩主黒田継高が死去し、葬儀を執り行った。天明4年(1784年)、先年死去した治之の遺命により、藩校修猷館(東学問稽古所)、甘棠館(西学問稽古所)を設立した。

寛政5年(1793年)12月、長年の勤労を賞されて、藩主黒田斉隆より偏諱を受け、隆庸と改めた。

寛政7年(1795年)、藩主黒田斉隆が6月に急死し、10月に生後間もない長順が藩主となると、幼い長順に代わって家老の合議で藩政を執ることになる。寛政8年(1796年)4月、家老合議が藩主に代わって家中の賞罰を行うことを布告した。

寛政12年(1800年)9月4日死去。家督は婿養子の一定(清定)が相続した。

参考文献

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参考サイト

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