龔自珍

1792-1841, 清代中国の学者

龔 自珍(きょう じちん、1792年8月22日乾隆57年7月5日) - 1841年9月26日道光21年8月12日))は、中国代の学者。は爾玉、または璱人。号は定盦・羽琌山民。後に名を改め、鞏祚ともいう。妻は段美貞(段玉裁の孫娘)・何吉雲。

龔 自珍
プロフィール
出生: 1792年8月22日乾隆57年7月5日
死去: 1841年9月26日道光21年8月12日
出身地: 浙江省仁和県
職業: 中国代の学者
各種表記
拼音 Gòng Zì zhēn
発音転記: きょう じちん
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略歴 編集

以下のような略歴を持つ[1]

朝第3代の天子・高宗の乾隆57年(1792)7月5日、浙江省仁和県、すなわち杭州城内東城の馬坡巷に生まれた。祖父の敬身(字は屺懐、号は匏伯)は乾隆24年(1759)の進士礼部の官を歴任して道台に至った官僚であり、父の麗正(字は晹谷、号は闇斎)も将来ほとんど同じコースをたどる。そのうえ、母の段馴(字は淑斎)は、清朝音韻学に巨大な足跡を印した段玉裁(1735-1815)の娘であるから、詩人の体内にはすでに濃厚なインテリの血が脈うっていた。

5歳の頃、進士に合格した父とともに、はじめて首都北京に移り住む。そのころ、早くも詩人のある異常さが人々を驚かす。冬の夕暮、路地にむせびなくあめ売りのチャルメラは、彼をばたちまち放心状態に陥らせた(冬日小しく病み、家書を寄せて作る)。それだけではない。やがて8歳になった詩人は、すでに異性に関心をもつ早熟児に成長しており、詩作も始まっていたようである。詩人の文学との接触は、母のベッドの傍で口うつしに教わった呉梅村(「呉偉業」)の詩に始まる(三別好の詩)というから、その時期は意外に早かったかもしれない。

だが、インテリ家庭の常として、詩人も将来の官僚をめざし、まず科挙受験の準備を始める。そして、このすぐれた文字学者の外孫には、本格的な経学のコースが選ばれる。12歳、段玉裁より親しく文字学の手ほどきを受けた詩人は、官制や目録学など基礎的な知識を着実に蓄積して、19歳のとき順天府(北京)郷試の副榜(特別任用権をもつ補欠)に合格する。やがてその資格によって、国家自身が古典の校訂出版を行う武英殿に就職する。これが官界入りの第一歩であった。時に21歳。

それがいつまで続いたか不明であるが、まもなく蘇州において同年の従妹段美貞(段玉裁の次男の娘)と結婚する。だが、彼の新妻は翌年の7月、単身上京した彼の留守中に病死する。同じ年の秋、順天郷試に失敗した詩人は、妻の埋葬に帰郷したまま江南にとどまり、2年を経て何吉雲と再婚する。

科挙の方は、なかなか順調に運ばぬが、創作活動はかなり活潑化していたらしい。今は散佚した最初の編年詩集は、15歳を上限とするし、詞の制作も19歳に始まるという。また散文方面では、13歳の作品がすでに家庭教師を驚かせた。このように創作の面にきらめき始めた詩人の異才は、外祖父段玉裁をこよなく喜ばせた。

江南に過ごす詩人は、27歳、浙江郷試に4位の成績で合格、挙人の資格を得る。時の委員長は王引之、段玉裁の門弟念孫の子で、父子ともに著名な訓詁学者である。郷試に優秀な成績をおさめた詩人も、翌春の最終関門・会試には失敗し、そのまま単身北京にとどまることになる。あたかも失意の最中にあるこの年、詩人は公羊学者劉逢禄(1776-1829)に会い、それが彼の学問に重大な転機をもたらした。

あけて29歳、挙人の資格により、内閣中書(詔勅文書を扱う、従七品)に就任、実際は国史館校対官として史料編纂に従事する。おりしも「大清一統志」の重修が続行中であり、詩人は新たに地理学の領域にも分け入る。

しかし、会試の失敗に始まる詩人の不運は壮年期に入って後を絶たず、再度の会試失敗、火災による蔵書の焼失、母の逝去、3度目の会試失敗と、次々に襲い掛かる。ただ、詩の制作は、服喪や戒詩(試作を断つ)による空白があったにもかかわらず、この間かえって活況を呈するかにみえる。現存の編年詩は28歳を上限とするが、276篇の88パーセントがこの時期に属する。なお、学術方面の研究では仏教や金石学に関するものも加わった。

38歳、待望の会試に及第してようやく進士の資格を獲得したが、不思議にも詩人は知る県の任用を辞退して原職に復帰する。

その後の生活は、少なくとも表面平穏にみえる。宗人府主事(皇族関係の事務を扱う、正六品)を経て、礼部に転じ、祠祭(祭祀をつかさどる)と主客司(朝貢接待をつかさどる)の主事を歴任する。しかし、道光19年・己亥の年、詩人は突如として20年にあまる官吏生活に終止符をうって帰郷する。時に48歳。

かくて4月23日、家族を残したまま詩人は2台の車に著述と分乗して、久しく住み慣れた首都を出発し、運河沿いに南下して、7月9日に杭州の父のもとに帰着する。それからしばらく静養ののち、家族を迎えるために、9月15日再び北行の旅につく。途中迂回して山東省曲阜の孔子廟に参拝し、さらに旅を続ける。しかし、しじんはなぜか入京を拒んで初めは任邱県に留まり、従僕を迎えにやる。息子から2度の要請がもたらされ、やむなく雄県から固安県に進むが、それ以上はもはやがんとして動かなかった。かくて家族と南下した詩人は、崑山に新築した羽琌山荘に落ち着き、以後はもっぱら江南の地を往来して自適の生活に入る。それより2年、道光21年(1841)には丹陽の雲陽書院に教えることになったが、まだ間もない8月12日、官舍で突如として世を去る。時に詩人は50歳。

著書と学問 編集

龔自珍の著書で最も影響力があったのは『春秋決事比』6巻と『五経大義始終論』・『答問九章』であり、友人であった魏源の著書とともに文章の妙で清代末期の学界を風靡した。文体の剽窃を難じられることもあったが、その学派の流行は後に康有為を輩出した。

西北の地理に関心を抱き、『西域行省議』・『蒙古図志』は魏源の『海国図志』とならび称された。また『定盦文集』に見える農宗論は、農本主義に基づく社会政策を強調したもので、龔自珍の政治傾向をうかがうことができる。晩年は彭紹升に私淑して壌帰子と称し『龍蔵考證』・『三普銷文記』をあらわし仏教(天台宗)に傾倒した。龔自珍や魏源は、仏説を採用して公羊学の方向を定め、後に公羊学派は公然と仏弟子を称し、康有為は孔子イエス・キリストと同一視するまでになった。

以下は、上記以外の主な著書

  • 『定盦文集』3巻
  • 『続集』4巻
  • 『附餘集』
  • 『龔定盦別集』
  • 『詩集定本』2巻
  • 『詞定本』

脚注 編集

  1. ^ 『中国詩人選集』 2-14巻、岩波書店、1962年11月22日。 

参考文献 編集

  • 『清史列伝』
  • 『清史稿』491
  • 『碑伝集補』49
  • 田中謙二『龔自珍 中国詩人選集二集 14巻』岩波書店
詩集(抜粋)の日本語訳注。