IG・ファルベンインドゥストリー

フランクフルト・アム・マインに現存するIG・ファルベン社本部ビル。ハンス・ペルツィヒの設計で1931年に完成した。戦後はアメリカ軍の最高司令部に、ドイツ再統一後はフランクフルト大学キャンパスになった。

IG・ファルベンインドゥストリー(イーゲー・ファルベンインドゥストリー、Interessen-Gemeinschaft Farbenindustrie AG)は、ドイツ化学産業トラストである。略称はIG・ファルベン (I.G. Farben)。ブナを大量生産したヒュルス社を設立した。IG・ファルベンは第二次世界大戦後、独占解消のため解体された。なお、ヒュルスは後年デグサと合併した。

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概略編集

1904年、バーデン・アニリン・ウント・ソーダ工業 (BASF)、フリードリッヒ・バイエル染料会社(バイエル)、アニリンファブリカツィオン(アグファ)の三社は三社同盟を結成し、同盟関係を形成した[1]。この三社は第一次世界大戦において毒ガスの製造を請け負ったことで知られる[1]。1916年には三社同盟に加え、ヘキストグリースハイム・エレクトロンドイツ語版など6社が「ドイツ染料タール利益共同体」(Interessengemeinschaft der deutschen Teerfarbenfabriken) を形成し、ドイツの化学・染料業界を支配するようになった[1]

1925年、利益共同体の6社は、BASFのカール・ボッシュを社長とし、バイエルのカール・デュースベルクドイツ語版を監査役とするトラストが形成された[2]12月にはヴァイラー・テア・メールドイツ語版社など2社が参加し、ロイナヴェルケドイツ語版ファブリック・カレドイツ語版カセラ染料工業ドイツ語版を含む9社の大企業が合同したIG・ファルベンインドゥストリーが誕生した。

ロイナヴェルケ(ロイナ工場)はハーバー・ボッシュ法の実用化を果した拠点である。1916年にドイツ帝国の資金援助を受けて設立された。第一次世界大戦前の窒素肥料は、チリ硝石の輸入とコークス炉ガスによる副生アンモニアの生産により原料が調達されていた。しかし、ハーバー・ボッシュ法は周辺の安い褐炭を利用することができた。また、ロイナ工場はブナ用子会社をもっていた。ハーバー・ボッシュ法の特許は戦後賠償としてアメリカに接収された。

社名には「利益共同体」を意味する IG が冠され、フランクフルト・アム・マインに本社所在地が置かれ、資本金は11億ライヒスマルクであった。デュースベルクはドイツ工業連盟の会長となり、企業界の大勢とは異なりヴァイマル共和政への支持を表明した[2]ハパックと親密なマックス・ウォーバーグが監査役となった[3]。主力製品は染料、合成皮革、無機化学製品、窒素、写真製品であり、スタンダード石油と提携して人造石油の開発にも取り組んだ[2][4]。合衆国が台頭してもIG・ファルベンの国際競争力は図抜けていた。IG・ファルベンは国際染料カルテルの主役であったが(詳細)、世界恐慌で輸出に大打撃を受けた[2]

国家社会主義ドイツ労働者党が台頭すると、1932年頃からナチスに接近し始めた。ナチ党と経済界の連携を取るために結成されたケプラー・グループ(親衛隊全国指導者友の会ドイツ語版の前身)には創設メンバーとして参加している[2]。また四カ年計画で実質的な主導者の地位にあったカール・クラウホドイツ語版はIG・ファルベンの所属であり、四カ年計画庁技術者の三割から二割がIGファルベンの出身者であった。第二次世界大戦が始まると、積極的に戦争協力を行った。強制収容所での大量虐殺に使われたとされる有毒ガス「ツィクロンB」は、IG・ファルベンがツィクロンBの製造販売のために設立した企業、デゲッシュ社製である。またアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所の近郊モノヴィッツにアウシュヴィッツ第三収容所モノヴィッツドイツ語版を建設し、隣接する石油プラント「ブナ」で収容者を強制労働させた[2]フランスでは地元染料工業を実質的に掌握した[5]

解体編集

第二次世界大戦後の1947年連合国軍によって役職員23人が戦争犯罪の嫌疑で起訴され、翌1948年、クラウホをはじめとする13人に有罪判決が下された(IG・ファルベン裁判英語版[6]。最高刑は懲役8年であり、死刑となったものは存在せず、全員が刑期満了前に釈放された[6]。ドイツ産業界を攻撃するのは国益を損なうという合衆国の判断であったとされる[6]

連合軍軍政期にあって、IG・ファルベン国内工場の処遇は英米仏ソ各管轄に委ねられた。この点、アメリカのヘンリー・モーゲンソー財務長官らはIG・ファルベンの完全な解体を主張したが、ドイツの産業を復興させようとする国務省と国防省によって反対された[5]。結果、IG・ファルベン自体は解体されるものの、その解体はドイツ人の専門委員会によって、経済的な規範によって行われるという方針がとられることとなった[5]。具体的にはIG・ファルベン裁判の判決が出された直後1948年8月5日、英米占領地区の合同管理理事会のもとに、IG・ファルベン合同管理課(Bipartie I.G.Farben Control Office, BIFCO)と合同占領地区IG・ファルベン分散パネル(Bizonal I.G.Farben Dispersal Panel, FARDIP)が設置された。管理課は連合国管理機構の一部であって、軍政府職員で構成された。パネルは管理課の監督下におかれ、ドイツ人専門家で構成されようとしていた。人選を議題として8月下旬から9月上旬にかけて数回のドイツ側会合が催された。出席者にバイエルのハーバーラント(Ulrich Haberland)がいた。彼はイギリス占領地区に存在する全主要工場の管財人となる人物であった[7]。管理課に送られたパネラー候補者リストには、ドイツ銀行出身の元IG・ファルベン監査役アプス(Hermann Josef Abs)、前AEG取締役会長ビューヒャー(Hermann Bücher)、元弁護士前ヘッセン州経済相ミュラー(Rudolf Müller)などがいた[8]。管理課が専任の務まらないアプスとミュラーを忌避、12月ビューヒャーを筆頭にパネラーを決定した[9]

1951年、IG・ファルベンは正式に解散した。しかし、これはIG・ファルベン自身が1940年に決めた再組織プランに基いた内容だった[10]ソ連占領地区(のちの東ドイツ)の工場は人民公社に改組されるか戦時賠償として接収された。フランスも接収等の厳しい措置をとった。アメリカ・イギリス・フランス各占領地区では翌1952年にはバイエル、ヘキスト、BASF、アグフアなどの12社に分割されたが、やがてバイエル、ヘキスト、BASFの三社によって吸収されていった[6]。IG・ファルベン本体の業務自体はIG・ファルベン精算会社に引き継がれた[6]。批判的株主と呼ばれるグループは戦時中の補償は後継会社であるバイエル、ヘキスト、BASFの三社が行うべきと主張しているが、三社はIG・ファルベンの後継会社ではなく新企業であるため補償義務はないと主張しており、補償を求める訴えには応じていない[11]。争点の行方はともかく、三社は要所で連携し、朝鮮特需で利益をあげ、その後はドイツ銀行の他にコメルツ銀行ドレスナー銀行をメインバンクとし、合理化と配当を実現し、アメリカ独占資本の計算で戦前に勝る成長を遂げたのである[10]

脚注編集

  1. ^ a b c 田村光彰 1997, pp. 55.
  2. ^ a b c d e f 田村光彰 1997, pp. 56.
  3. ^ ロン・チャーナウ 『ウォーバーグ ユダヤ財閥の興亡(上)』 日本経済新聞社 1998年 p.414.
  4. ^ 大東英祐 「企業間交渉の展開過程 I・G・ファルベンとスタンダード・オイルの十年間」 経営史学 8(2), 26-58, 1973
  5. ^ a b c 田村光彰 1997, pp. 57.
  6. ^ a b c d e 田村光彰 1997, pp. 58.
  7. ^ Klaus Trouet, Der Hoechst-Konzern entsteht. Die Verhandlungen über die Auflösung von IG Farben und die Gründung der Farbwerke Hoechst AG 1945 bis 1953, Frankfurt/M. 1978, S.36-41.
  8. ^ Der Hoechst-Konzern entsteht, op. cit., S.39-40.
  9. ^ Der Hoechst-Konzern entsteht, op. cit., S.45.
  10. ^ a b 前川恭一 「戦後ドイツの工業独占企業の財務政策」 同志社商学 14(6), 89-105,中折2枚, 1963-04
  11. ^ 田村光彰 1997, pp. 58-59.

関連項目編集

参考文献編集

  • 田村光彰「ドイツ企業の戦後反省 : ダイムラー・ベンツとIG-ファルベンの場合」、『金沢大学大学教育開放センター紀要』、金沢大学、1997年、 53-61頁、 NAID 110004826906