We are Diamonds」(ウィ・アー・ダイヤモンズ)は、1992年12月12日に発売された浦和レッドダイヤモンズ[注釈 1]のオフィシャルソング[1]。1993年のJリーグ開幕を控えて各チームごとに発表されたオフィシャルソングのひとつ[1]

WE ARE DIAMONDS
〜Sailing〜
THE PROJECTシングル
リリース
規格 8センチCD
ジャンル 応援歌
レーベル Sony Records
プロデュース Andy Baum and Kevin Hall / Masashi Robert Wada
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原曲はイギリスの歌手ロッド・スチュワートのヒット曲として知られる「セイリング」で、これを元に当時のクラブスタッフであった佐藤仁司[注釈 2]が作詞し、演奏はドイツのグループであるTHE PROJECTが手掛けた[1]

浦和の「勝利の歌」としてサポーターの間で歌われていたが、2012年からは槙野智章の発案によりサポーターと選手とで歌われている[4]

背景 編集

佐藤によれば三菱自動車工業サッカー部時代には入場曲として『007/ダイヤモンドは永遠に』の主題歌を使用していたが[5]、かねてから「ユール・ネヴァー・ウォーク・アローン」のようなサポーターソング(アンセム)を作りたいと考えていた[5]

Jリーグ開幕を翌年に控えてソニーレコードから各チームごとのオフィシャルソングが制作されることになる[5]。佐藤は「サポーターのアンセム」といった要素に加え、自身が落ち着いた曲を好んでいたことからソニー側に「バラード調のもの」などのさまざまな要望を伝えたところ、「セイリング」の音源を使用できると提案された[5]カバー曲となった理由については「替え歌であれば皆が歌える」「1から作曲するものではなく、替え歌で行こうというのは(当初から)決めてました」としている[5]。歌詞については佐藤が思いのままを英語で書き連ね、友人のイギリス人男性に文章的に間違いがないか校閲を受けた上で完成した[5]。1992年11月14日付の『埼玉新聞』によれば、「選手と観客がたがいに歌い合う心の交流」をテーマとし、「サポーターから選手へのはげましと選手から観客に歌いかける心の交流を表現している」としている[1]

なお他のチームはアップテンポのものを採用するケースが多く[注釈 3]、バラード調のものは浦和のみだった[6]

反応と受容 編集

マッチデー・プログラム編集に携わる清尾淳によれば、この曲の発表当初の評判は芳しいものではなかった[6]。清尾はオリジナル曲ではなくカバー曲だった点から疑問を抱き[7]、放送作家の山中伊知郎も同じ理由から否定的な反応を示した[8]。これに対しサポーター集団「クレイジー・コールズ」の吉沢康一は「『Diamonds』という言葉は、企業色たっぷりなんですよね[注釈 4]。絆というものに関して言えば(中略)“Diamond”はいいかもしれないけれども、少々の違和感もあったんです」と捉えていた[9]

こうした中、吉沢らは「(クラブ側からの発信のみでは)俺達が歌わなければ終わってしまう」「この歌を積極的に受け入れることで自分たちの文化に変えてしまおう」と考え[9]、1993年6月19日の清水エスパルス戦の後半37分、浦和の1点リードで迎えた局面でゴール裏で歌われた[7]。この時の光景は多くの観客から好意的に受け入れられたといい[6]、清尾は「私自身は外国に行ったことないんですが(中略)、"ああ、これが本場の雰囲気なんだろうなあ"と感じましたね。(中略)これぞチームを勝たせるサポーターの典型だと思いました」と評した[6]。この後、勝利の歌として定着するに至ったが、吉沢によれば「英詞の歌を広める」目的のため必ずしも勝利を前提としたり、試合終盤に歌うものとは限定せず、仮に勝利した場合であっても内容が伴わない試合であれば、あえて歌わないこともあった[9]

2009年、原曲の「セイリング」で知られるロッド・スチュワートはコンサートツアーで訪日した際、「みんなが僕の『セイリング』に合わせてビクトリー・ソング(勝利の歌)を歌っているのをビデオで見て、とてもハッピーになったよ」とのメッセージを残した[10]

2012年からは槙野智章の発案によりホームゲームでの勝利後、選手が一緒に歌うようになった[9][11]。同年に1.FCケルンから加入した槙野は「レッズを盛り上げるために何かやりたい」といった趣旨の発言をしており、それを形にしたものだった[11]。これについて浦和フットボール通信の椛沢佑一は吉沢との対談において「常に勝ったらやるというイベント感ではなくて、今日は勝ったからみんなで歌いたいんだという気持ちから来る行動であることが理想だとは思います」と評し、吉沢もおおむね同意した[9]。清尾によれば、槙野の案は「あの時間はサポーターのもの」と見るサポーターからの反発もあったが、やがて定着したといい、「彼が考えたことは、それまでレッズサポーターが培ってきたものに選手も加わるというシンプルかつ大胆なものだった」と評した[11]

楽曲リスト 編集

#タイトル作詞・作曲時間
1.「WE ARE DIAMONDS (SAILING)」Gavin Sutherland
2.「GO!REDS!GO!」The Project
合計時間:
1993 Jリーグ開幕記念特別限定盤
「WE ARE DIAMONDS (SAILING)〜1993 Redia Special Mix〜」は選手・スタッフとサポーターによる歌唱[注釈 5]
#タイトル作詞・作曲時間
1.「WE ARE DIAMONDS (SAILING)〜1993 Redia Special Mix〜」Gavin Sutherland
2.「GO!REDS!GO!」The Project
3.「WE ARE DIAMONDS (SAILING)」Gavin Sutherland
合計時間:

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 当時の名称は三菱浦和フットボールクラブ
  2. ^ 三菱自動車販売に入社後、社業のかたわら三菱重工サッカー部付きの審判員や応援団を務める[2]。1990年にサッカー部が重工から自工へと移管された際にマネージャーとなり、清水泰男、森孝慈、立花洋一らとプロ化の準備を進める[2]。プロ化後はクラブスタッフとして運営、広報業務などに携わる[3]。2005年11月限りで浦和を辞め、Jリーグへ転籍[3]
  3. ^ サンバ調のもの(ヴェルディ川崎「SAMBA DE VERDY」)、ロック調のもの(名古屋グランパスエイト「HERE WE GO」、横浜フリューゲルスVictory」)、アイドル調のもの(清水エスパルス「SENSATIONAL WIND」)などといった陣容。
  4. ^ 三菱系グループにおける「ダイヤモンド」の解釈についてはスリーダイヤを参照。
  5. ^ 土田尚史望月聡、今倉秀之、池田伸康、坂口健司、吉田靖、佐藤仁司、およびクレイジー・コールズほかサポーター

出典 編集

  1. ^ a b c d 「「WE ARE DIAMONDS」三菱浦和の応援歌完成」『埼玉新聞』埼玉新聞社、1992年11月14日、7面。
  2. ^ a b 大住良之『浦和レッズの幸福』アスペクト、1998年、41-43頁。ISBN 4-89366-992-3 
  3. ^ a b 清尾淳 (2005年12月13日). “#044「ミスター」の理由”. Weps うち明け話. 埼玉縣信用金庫. 2023年12月28日閲覧。
  4. ^ 佐藤亮太 (2021年11月19日). “「浦和レッズを変える」と宣言した槙野智章の10年… クラブ、サポーター、SNSと向き合う原動力となったのは何か?”. サッカーダイジェストweb. 日本スポーツ企画出版社. 2023年11月29日閲覧。
  5. ^ a b c d e f 日本のサポーター文化はこの男から「Jリーグの井戸を掘った人達」Vol.4 佐藤仁司. Youtube. Jリーグ公式チャンネル. 2023年12月28日閲覧
  6. ^ a b c d 轟夕起夫、クレイジーコールズ『THE RED BOOK 闘うレッズ12番目の選手達』大栄出版、1994年、51-52頁。ISBN 4-88682-450-1 
  7. ^ a b 清尾淳『浦和レッズの快感 すきにならずにいられない』あすとろ出版、1998年、15頁。ISBN 4-7555-0867-3 
  8. ^ 山中伊知郎『浦和レッズ至上主義』風塵社、1998年、10頁。ISBN 4-938733-54-4 
  9. ^ a b c d e 吉沢康一×椛沢佑一緊急対談『We are Diamonds』その意味、重さを知ることが重要だ。”. 浦和フットボール通信 (2012年8月2日). 2023年12月28日閲覧。
  10. ^ ロッド・スチュワートからのメッセージ”. 浦和レッドダイヤモンズ公式サイト (2009年3月17日). 2023年12月28日閲覧。
  11. ^ a b c 清尾淳 (2021年11月22日). “#1110 似ている気がする”. Weps うち明け話. 埼玉縣信用金庫. 2023年12月28日閲覧。