過剰脚注は必要だ!と主張するIP:203.165.22.143会話 / 投稿記録が現れ[1]ノート:生田絵梨花#個人情報(本名、生年月日、出身地・居住地、出身学校など)の出典・脚注で議論していたのですが、相手がいつまでも「納得」しないため、コメント依頼します。

経緯 編集

内容は、以下のとおりです。

生田 絵梨花(いくた えりか、1997年1月22日 - )は、……女性アイドルグループ乃木坂46のメンバーである[4]。

上記一文は、脚注[4]の出典が下線部全体に掛かっているため、[4]のみで全ての検証可能性を満たします。 これに対し、IP:203.165.22.143会話 / 投稿記録さんは、

生田 絵梨花(いくた えりか、1997年1月22日[3] - )は[4]、……女性アイドルグループ乃木坂46のメンバーである[4]。

とすべきだと主張しています。はたして、このような過剰脚注は必要なのでしょうか?

IP:203.165.22.143会話 / 投稿記録さんは過剰脚注を整理した他の編集者を荒らし呼ばわりし、2度も差し戻しています[2][3]

過剰脚注を整理しただけで、このような安易に荒らし呼ばわりする行為は許されるのでしょうか?--TextField会話2019年9月26日 (木) 10:03 (UTC)[返信]

依頼者コメント 編集

被依頼者コメント 編集

ノート:生田絵梨花#個人情報(本名、生年月日、出身地・居住地、出身学校など)の出典・脚注の節を作成したのも私です。脚注出典のコメントアウト化が推奨されているのだか何だか知りません。Wikipedia:存命人物の伝記には「生年月日」は本人から誕生日の公開について苦情が寄せられた場合には情報を削除するみたいな指示もありますが、これは wikipedia の出典として適切ではない出典からの情報を含む本人側でない出典からの情報だからですよね。本人側に近い脚注出典が表示されていれば問題ないでしょうね。またノートページには「何年~何十年も前の資料を基に、存命人物の誕生日や本名などを記載することについて」として問題が提起されています、「当人はプライバシー尊重を望んでいると推定する」となっていることについての話題も出ていますが改訂の議論が進んでいません。存命人物の記事編集画面に「本人が公表していない個人情報(本名、生年月日、出身地・居住地、出身学校など)」が表示されるのは重要事項だからで、本人が公表している個人情報であるという出典が必要とされていると思います。脚注出典の削減に反対しているのではありません。記事:生田絵梨花の脚注出典の削減については生田絵梨花 2019年10月2日 (水) 20:42 の版、「略歴」節、「2019年…ナターシャ役で出演[47][48]。(←出典削減可能、[48]で足ります。[47]はリンク切れでアーカイブ〈インターネットアーカイブ、Archive.is、ウェブ魚拓〉にも見つかりませんでした。)…2月から3月にかけて…ジュリエット役で出演[49][50]。(←出典削減可能、どちらか片方で足ります。「2月から3月」の部分は「2月から4月」です。)…『レ・ミゼラブル』…予定である[51][52][53]。(←出典削減可能、[53]で足りますよ。[51]では9月まで公演があることが分からない。)」などで削減可能な部分があります。なおインターネットアーカイブへの保存は「https://web.archive.org/save/目的のURL」で出来ます。--203.165.22.144 2019年10月4日 (金) 05:25 (UTC)(203.165.22.143とは違うIPですが。)[返信]

第三者コメント 編集

  • よく理解されてない方がいるのですが、三大方針が求めているのは「逐次的な出典」ではなく、「検証可能性」です。検証可能性を満たすために、逐次的な出典が推奨されているのです。逐次的に出典を提示せずとも、その記述の出典や妥当性がわかるのであれば、それは何も問題ないんです。情報の合成の懸念を避けるために、やや執拗に逐次出典をつけるなど、ケースバイケースの例もあるでしょうが、少なくとも今回の、依頼者が挙げられた例に関して言うのであれば、文節中にも出典を提示するのは、率直に過剰だと思います。それは可読性にも問題を及ぼすし、後から編集を行いたい人にも、必要以上の労力を要し、メリットよりデメリットの方が多いです。
過剰な出典がもたらす弊害などに関しては過去にWikipedia:井戸端/subj/過剰脚注・出典についてなどにもある通りで、「過ぎたるは及ばざるが如し」です。重要なことなので再度述べますが、ウィキペディアが三大方針として求めているのは"検証可能性"であって、"逐次的な出典"ではありません。そうした観点において、本当にそこまで逐次的に出典をつけなければ検証可能性は満たせないか、と検討して欲しいです。--EULE会話2019年9月26日 (木) 11:14 (UTC)[返信]


  • 過剰脚注の存在やそれらを整理する行為に賛否はありませんが、こちらのノートにて脚注をどう付けるか議論されていたのを思い出したので参考までに貼っておきます。ボランティア氏の記事では句点ごとに脚注を一々付けるかどうか議論されていたわけですが、この女性アイドル記事においても検出可能性を求めるために同じ節に脚注を複数貼っていたわけですから問題はないはずです。脚注の示す内容が重複していなければの話ですが。
依頼者様が過剰脚注を整理して荒らし呼ばわりされた[4]ことについても書きますが、整理という行為について要約の説明だけでは理解が得られず合理性がないものであれば荒らしと言われても仕方ないはずです。ただし1度や2度の編集で荒らしと言うのはムリがあると思います。要約の記述に左右されるとは思いますがWP:NOTを示すだけの材料が1度や2度の行為で揃うとは思えないからです。他方で荒らしと見なす基準については依頼内容と関係ないかもしれませんが、管理者伝言板を見るに何度何度も続いてようやく荒らしと指摘されるのがほとんどのようです。それについてもEULE様がおっしゃるようなケースバイケースと言えると思います。--126.255.148.125 2019年10月28日 (月) 11:24 (UTC)[返信]
  • 追伸までに、1度や2度の整理行為だけで荒らし呼ばわりするのは被依頼者様がWP:AGFに違反してしまうものになると思います。厳密には被依頼者様が違反してしまう恐れがあるというものです。そもそも1度や2度の編集だけで荒らしとしたければそれなりのことが依頼者様の編集なり要約なりに表れていないといけませんので、依頼者様の編集内容の差分と要約を見るに荒らしとするのはさすがに無理があります。
  • EULE様が読みやすさについてすでにコメントされていますが、どちらかと言うとひとつの脚注で示せる範囲が広ければ広いほど脚注は減らせますし、脚注がカバーできる範囲が少なければ狭い間隔で脚注を入れていくことになると思います。読みやすいかどうかで言えば、まちがいなく脚注が整理されて脚注が少ない方が読みやすいと思います。それで記事の信頼性が著しく損なわれるのであれば本末転倒ですが、Wikipediaは編集者以外の人間が見たときのことも考えて書くものだと思うのです。その辺を被依頼者様がどういう立ち位置にあるお考えのもとにいらっしゃるのかは分かりませんので第三者としてのコメントまでに。--126.255.148.125 2019年10月28日 (月) 19:00 (UTC)[返信]