Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/郡上一揆 20120911

郡上一揆 - ノート 編集

選考終了日時:2012年9月24日 (月) 22:04 (UTC)

  • (自動推薦)2012年8月の月間強化記事賞受賞記事。--Pastern会話2012年9月10日 (月) 22:04 (UTC)[返信]
  •   賛成 一揆に至った背景から、経過、結末、影響に至るまで詳細に説明がされていていると思います。映画節だけは毛色が異なり浮いた印象がありますが、今後の課題として加筆または単独記事として分離する等、改善する余地があると思います。いずれにしても記事全体としては参考文献と出典もきちんと提示されており、GAとして十分な内容かと思います。--さかおり会話2012年9月13日 (木) 03:54 (UTC)[返信]
    •   コメント今年初めに一揆のような社会運動の記事に取り組んでみたいと思い立ち、簡単な下調べを行い郡上一揆を加筆してみることに決めましたが、大規模な社会運動というのは様々な人々の思惑が複雑に絡み合いながら進められていくことに気づかされ、整理して記事にまとめるのに正直苦労しました。ですから現状の記事についても様々なご意見があると思いますので、皆さんのご意見をお聞かせ願えればと思います。あと映画については確かに現状では浮いてしまっていますので、何とかしたいと思っていますがどのように扱うのが良いか悩んでいます。まず別記事にする場合、映画単独でどのくらいの特筆性があるのか私には判断がつきませんし、正直映画の記事を立てる自信もありません。一方現記事内での加筆となると、例えば郡上一揆の文化的影響みたいな項を作って加筆を行うことになるかと思いますが、現状の出演人物は全てカットして簡単な記述を行う形になりそうで、全くの分野外である映画について自分だけの判断でそこまで行う自信もなくそのままになっています。記事のノートでご意見を伺えればと思っています。--のりまき会話2012年9月13日 (木) 10:27 (UTC)[返信]
  •   賛成  偉大な記事です。正直言ってこの記事はあまりに大作・詳細すぎてきちんと読むのも根性要ります、流れを把握するのも大変です。読み物としてはもう少しボリュームダウンしていただきたいが、それほどまでに大した記事だという事でGA選考では問題ないでしょう。FAを目指すに当たって必要なのはボリュームアップではなくボリュームダウンです--ぱたごん会話2012年9月14日 (金) 13:28 (UTC)[返信]
    •   コメントいちいちコメントをつけるのは申しわけないと思いますが、とりあえず一言二言お許しください。実は郡上一揆の記事は、私が集めたいと考えている参考文献が集めきれておらず、まだ加筆の必要があると判断している状況なのです(苦笑)。現状の記述が複雑かつ錯綜していて把握しにくいのは事実で申しわけないと思いますが、これは各参考文献から読み取れる事件の内容そのものが複雑な様々な動きがあり、読み物としてのわかりやすさをある程度犠牲となるのを承知で、事件を巡る動きをきちんと記述する方を選びました。もっともこのあたりは様々な考え方があると思いますので、記事のノートで皆様のご意見をお待ちしています。--のりまき会話2012年9月15日 (土) 02:52 (UTC)[返信]
  •   賛成 内容的には凄く面白いです。石徹白騒動と経緯が似ていますね。映画の節はスタブが貼ってあるのでとても違和感があります。分離できればその方がいいですね。感想として、石徹白騒動の時もそうでしたが、農民らも結局処分を受けるとはいえ、農民の訴えが幕府を動かして幕閣上層部や藩主らが責任を問われ処分されるようなことがあるくらい、江戸時代の日本は法の支配がかなり行われていたんだなということを感じます。同じ東アジアでも中国や朝鮮では、君主の意向が絶対で農民の意見など歯牙にもかけられなかったのではないでしょうか。江戸時代は関所での通行管理が行われていたはずですが、訴訟の関係者がどうやって江戸へ登ったのかというのも気になるところです。現場の庄屋や名主のレベルでの書面で通行できたんでしょうか。また、私の出身は鹿児島なのですが、郡上では農民がこうやって対応できたことに、薩摩藩との違いの大きさを感じます。薩摩藩では農民は徹底的に統制支配されていて、余剰の収入など一切農民に残されなかったので、そもそも彼らに幕府へ訴えるなどという知識もなければ江戸へ代表を送れる資金もなく、何かあればすぐ押さえつけられるだけの存在でしかなかったのです。鹿児島県史に、薩摩藩の収奪が酷過ぎて民間資本の蓄積が進まず、明治以降の発展に支障をきたしたと書かれるだけのことはあります。執筆お疲れ様でした。--Tam0031会話2012年9月16日 (日) 14:42 (UTC)[返信]
    •   コメントTam0031さんには毎回丁寧に記事を読んでいただき、本当にどうもありがとうございます。ご指摘の点は全て記事の主題と密接に関わる点だと思いますので私なりに説明いたします。まず皆様から指摘されている映画については、現在別記事を製作中です。映画は本当に分野外でモチベーションがなかなか上がりませんが(苦笑)、単独記事として成立するくらいにはして、分割提案、分割としていきたいと思います。法による支配は官僚制の整備とともに徳川吉宗享保の改革の中で大きく進みました。享保の改革を始めとする江戸の三大改革、あと田沼意次の田沼政治は、それぞれ法や官僚制の整備、貧民などへの社会政策、物価、貨幣などの経済政策、都市、農村問題への対処など、当時の社会が抱えていた諸問題に対して、それぞれ特徴有る対応を行っていて非常に興味深いです。郡上一揆の記事を書きながら私も幕府の対応がひどい一面がある一方、藩主や幕府中枢の責任を認め処罰を行い、これまでの政策からの転換を図り、一揆後は農民たちへの生活への配慮も見せるなど、それなりに農民たちの訴えを聞く耳を持っていたことを感じ、そのあたりがこの郡上一揆の歴史的意義の一つと感じています。ただ、各改革によっても結局どうしても乗り越えられなかった壁がいくつかあり、江戸幕府は崩壊していくのですが、その壁の一つが身分制です。郡上一揆でも水呑百姓は駕籠訴人として認められず罪にも問われなかったことを記事内に書きましたが、当時、百姓は関所通過に通行手形は必須でしたが、乞食、非人、渡世人など士農工商の枠外にある人々は通行手形が無くても黙認されていました。郡上の農民たちはその姿がみすぼらしく乞食同様であったため、手形無しで関所を通過出来たとのことです。このあたりは参考文献内に明記されていますので加筆いたします。また農民たちがこれだけの長い闘争を戦い抜いた背景には、ご指摘のようにある程度の経済的な余裕、そして読み書き算盤などの教養が必須でした。江戸時代の民間資本の蓄積、技術や教育の普及は日本が明治維新に成功した要因に挙げられていますが、実はこのあたりは私の今後の執筆テーマの一つとなりそうなので、しっかり勉強していきたいと考えております。どうもありがとうございました。--のりまき会話2012年9月16日 (日) 23:00 (UTC)[返信]

賛成のみ3票の状態が48時間継続のため、早期終了・通過となります。--Tam0031会話2012年9月18日 (火) 14:43 (UTC)[返信]