清涼殿落雷事件

930年に、平安京・内裏に起きた落雷

座標: 北緯35度1分15秒 東経135度44分38秒 / 北緯35.02083度 東経135.74389度 / 35.02083; 135.74389

清涼殿落雷事件(せいりょうでんらくらいじけん)は、平安時代延長8年6月26日ユリウス暦930年7月24日)に、平安京内裏清涼殿で起きた落雷災害。

清涼殿落雷事件
『北野天神縁起絵巻』に描かれた、清涼殿落雷事件
日付延長8年6月26日930年7月24日
時刻16:00 - 16:30
場所平安京内裏清涼殿
死者3-5人(藤原清貫平希世、美努忠包、近衛2人?)
負傷者2-4人(紀蔭連、安曇宗仁、近衛2人?)
物的損害清涼殿南庇焼損

概要 編集

この年、平安京周辺は干害に見舞われており[1]、6月26日に雨乞いの実施の是非について醍醐天皇がいる清涼殿において太政官の会議が開かれることとなった[2]。ところが、正午過ぎより愛宕山上空から黒雲が垂れ込めて平安京を覆いつくして雷雨が降り注ぎ[2]、16時過ぎに清涼殿の南西の第一柱に雷が直撃した[3][2]

この時、周辺にいた公卿官人らが巻き込まれ、公卿では大納言民部卿藤原清貫が衣服に引火した上に胸を焼かれて即死、右中弁内蔵頭平希世も顔を焼かれて瀕死状態となった。16時半過ぎ、雨が上がり、清貫は陽明門から、希世は修明門から車で秘かに外に運び出された。しかし、希世も程なく死亡した。落雷は隣の紫宸殿にも走り、右兵衛佐美努忠包(『扶桑略記』では右近衛忠兼、清涼殿で被災)が髪を焼かれて死亡。紀蔭連は腹を焼かれてもだえ苦しみ、安曇宗仁は膝を焼かれて立てなくなった。二人は「死活相半ば」だったものの、しばらくして回復した。また、清涼殿南庇で火災が起こり、右近衛茂景が一人で消火に当たった[2][3]。『扶桑略記』によれば、清涼殿で更に近衛2名が被雷した[4]

清涼殿にいて難を逃れた公卿たちは、負傷者の救護もさることながら、本来宮中から厳重に排除されなければならない死穢に直面し、遺体の搬出のため大混乱となった。7月2日、穢れから最も隔離されねばならない醍醐天皇は清涼殿から常寧殿に遷座したが[5][4]、惨状を目の当たりにして体調を崩し[2][4]、3ヶ月後に崩御することとなる[6]

天皇の居所に落雷し、そこで多くの死穢を発生させたということも衝撃的であったが、死亡した藤原清貫がかつて大宰府に左遷された菅原道真の動向監視を藤原時平に命じられていたこともあり、清貫は道真の怨霊に殺されたという噂が広まった。また、道真の怨霊が雷神となりを操った、道真の怨霊が配下の雷神を使い落雷事件を起こした、などの伝説が流布する契機にもなった。

史料 編集

日本紀略[1] 編集

(延長八年六月)廿六日戊午、諸卿侍殿上、各議請雨之事、午三刻従愛宕山上黒雲起、急有陰沢、俄而雷声大鳴、堕清涼殿坤第一柱上、有霹靂神火、侍殿上之者、大納言正三位兼行民部卿藤原朝臣清貫、衣焼胸裂夭亡年六十四又従四位下行右中弁兼内蔵頭平朝臣希世、顔焼而臥、又登紫宸殿者、右兵衛佐美努忠包、髪焼死亡、紀蔭連、腹燔悶乱、安曇宗仁膝焼而臥。民部卿朝臣載半蔀、至陽明門外載車。希世朝臣載半蔀、至修明門外載車。時両家之人、悉乱入侍。哭泣之聲、禁止不休。自是天皇不予。

扶桑略記』 本文[2] 編集

(延長八年)六月廿六日羊時。大納言民部卿藤原清貫年六十四。参議保則之四男也幷右中弁内蔵頭平希世及近衛二人、於清涼殿為雷被震。主上惶怖。玉体不余。遷幸常寧殿。

扶桑略記』 裏書[3] 編集

(延長八年六月)廿六日戊午、左大臣参仗座。召外記。宣云、奉勅。炎旱渉旬。田畝焦損。爰京南鳥羽等欲導神泉池水。若不許容、恐失民業。宜令少納言良岑遠親、卒六府舎人以下、准承前例、通池水流已了。是日申一刻、雲薄雷鳴、諸衛立陣、左大臣以下群卿等、起陣、侍清涼殿。殿上近習十余人連膝、但左丞相近御前、同三刻、旱天曀々、蔭雨濛々、疾雷風烈、閃電照臨、即大納言清貫卿、右中弁平希世朝臣震死、傍人不仰瞻、眼眩魂迷、或呼或走云々、先是、登殿之上舎人等、倶於清涼殿逢霹靂。右近衛忠兼死。形躰如焦。二人衣服損傷。死活相半。良久遂無恙。又雷火着清涼殿南簷、右近衛茂景独撲滅、申四刻雨晴雷止、臥故清貫卿於蔀上、数人肩舁、出式乾門、載車還家、又荷希世修明門外車将去、上下之人、観如堵檣、如此騒動、未嘗有矣。

関連項目 編集

脚注 編集

  1. ^ 『日本紀略』延長8年5月15日、6月
  2. ^ a b c d e 『日本紀略』延長8年6月26日
  3. ^ a b 『扶桑略記』裏書 延長8年6月26日
  4. ^ a b c 『扶桑略記』本文 延長8年6月26日
  5. ^ 『日本紀略』
  6. ^ 『日本紀略』延長8年9月29日

参考文献 編集