渡辺 紘三旧字体渡邊 紘三[1]、わたなべ こうぞう、1942年昭和17年)1月28日[2] - 2007年平成19年)9月16日)は、日本政治家自由民主党衆議院議員

渡辺わたなべ 紘三こうぞう
渡邊 紘三
生年月日 1942年1月28日
出生地 新潟県北蒲原郡(現・新発田市
没年月日 (2007-09-16) 2007年9月16日(65歳没)
死没地 東京都新宿区
出身校 早稲田高等学校
所属政党 自由民主党
親族 父:渡邊良夫
兄:渡辺肇

選挙区 旧・新潟2区
当選回数 6回
在任期間 1972年12月10日 - 1990年1月24日
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同じ派閥で名の読みが同じ渡部恒三が会津のケネディと呼ばれたのに対し、越山会のスポークスマンと呼ばれた。

来歴・人物

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渡邊良夫の三男として生まれる。新潟県北蒲原郡黒川村(現・胎内市)に本籍があり、現在の新発田市紫雲寺地区で幼少期を過ごした[3]早稲田高等学校を中退[2]後、新潟県内の会社に勤務していたが兄の渡辺肇の引退を受け、1972年(昭和47年)第33回衆議院議員総選挙旧・新潟2区から自由民主党公認で出馬し初当選(当選同期に小泉純一郎加藤紘一山崎拓石原慎太郎村岡兼造保岡興治瓦力三塚博越智通雄野田毅深谷隆司など)。

その後、県内の阿賀野川流域北部を地盤として[4]連続6回当選している[1][2]。党内では同郷の田中角栄元首相率いる最大派閥の田中派に属し、第1次大平内閣建設政務次官鈴木善幸内閣郵政政務次官、衆議院逓信委員長などを歴任した[1][2]。創世会が設立された際には田中角栄への配慮などから旧田中派内で中立系の立場を取ったが、竹下登自由民主党総裁選挙に出馬した際には推薦人に加わり、1987年(昭和62年)10月に経世会入りした[5]糖尿病を患って入退院を繰り返し[6]、1990年(平成2年)の第39回総選挙に出馬せず引退した。2007年9月16日、持病の糖尿病などが悪化し[3]東京都新宿区内の病院にて65歳で逝去した。

実業界では (株) 大志 を設立し社長を務めた[1]

脚注

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  1. ^ a b c d 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』724頁。
  2. ^ a b c d 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』683頁。
  3. ^ a b 読売新聞、2008年1月13日付朝刊、新潟地方面
  4. ^ 朝日新聞、1986年6月2日付朝刊、9頁。
  5. ^ 朝日新聞、1987年10月29日付朝刊、2頁。
  6. ^ 朝日新聞、1989年5月24日付夕刊、2頁。

参考文献

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  • 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』日外アソシエーツ、2003年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。


議会
先代
志賀節
  衆議院逓信委員長
1984年 - 1986年
次代
宮崎茂一