関 亀治(せき かめはる、1886年(明治19年)11月3日[1][2] - 1969年(昭和44年)4月5日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将

関 亀治
生誕 1886年(明治19年)11月3日
日本の旗 日本 兵庫県
死没 1969年(昭和44年)4月5日
所属組織 日本陸軍
軍歴 1907年(明治40年) - 1945年(昭和20年)
最終階級 陸軍中将
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経歴

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兵庫県出身[1][2][3]柏原中学校を経て、1907年(明治40年)5月、陸軍士官学校(19期)を卒業[1][4]。同年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第20連隊付となる[1][4]。陸士生徒隊付などを経て、1918年(大正7年)11月、陸軍大学校(30期)を卒業した[1][3]

参謀本部付勤務、参謀本部員(兵站班)、陸軍兵器本廠付、アメリカ駐在、兵器本廠付、陸軍省整備局課員などを歴任し、1927年(昭和2年)7月、歩兵中佐に進級[1]1929年(昭和4年)12月、兵器本廠付に発令され陸大専攻学生となった[1]陸軍歩兵学校付を経て、1931年(昭和6年)8月、歩兵大佐に昇進し歩兵学校教官に就任[1][3]

1932年(昭和7年)8月、歩兵第12連隊長に就任し、戦車第2連隊長、第14師団参謀長を歴任し、1936年(昭和11年)3月、陸軍少将に進級し歩兵第2旅団長となる[1][2][3]輜重兵監を経て、1939年(昭和14年)3月、陸軍中将に進み新設の第34師団長に親補され、中国に出征した[1][2][3]陸軍公主嶺学校長を経て、1941年(昭和16年)9月、第20軍司令官となり満州に赴任し太平洋戦争を迎えた[1][2][3]1943年(昭和18年)3月、参謀本部付となり、翌月、予備役に編入された[1][2][3]1945年(昭和20年)4月に召集され、宇都宮師管区司令官を同年12月まで務め召集解除となった[1][2][3]

1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[5]

栄典

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『日本陸海軍総合事典』第2版、88-89頁。
  2. ^ a b c d e f g h 『日本陸軍将官辞典』407頁。
  3. ^ a b c d e f g h 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』241頁。
  4. ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』238、241頁。
  5. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」138頁。

参考文献

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  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。