山 六郎(やま ろくろう、1897年 - 1982年)は、日本のイラストレーター装丁家である。

山 六郎
Rokuro Yama
生誕 1897年
日本の旗 日本 高知県安芸市
死没 1982年
日本の旗 日本 高知県
出身校 旧制 京都高等工芸学校 卒業
職業 イラストレーター
装丁家
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人物・来歴 編集

1897年(明治30年)、高知県内、現在の安芸市に生まれる[1]

旧制・京都高等工芸学校(現京都工芸繊維大学)を卒業後、中山太陽堂(現クラブコスメチックス)に入社した[1]

1922年(大正11年)に同社が併設した出版社・プラトン社に出向し、同年4月、中山太陽堂顧問の小山内薫編集のもと、山が装丁をし、タイトルロゴを制作し、扉絵等を描いた雑誌『女性』が創刊された[1]。翌1923年(大正12年)、山の装丁に注目した山名文夫が入社、また編集者として、直木三十二(のちの直木三十五)、川口松太郎も入社し、同年12月には雑誌『苦楽』が[2]1926年(大正15年)1月には雑誌『演劇・映画』が創刊され、同誌および直木の手がけた単行本のヴィジュアル・ワークも手がけた[1]。同年8月には『演劇・映画』は休刊した。

1928年(昭和3年)5月にプラトン社が廃業し、2誌も廃刊[2]、山は東京に移り、平凡社新潮社等でひきつづき装丁の仕事を手がけた。

48歳となる1945年(昭和20年)に第二次世界大戦の終戦を迎え、その後、高知に帰郷する。県内での美術の教育普及活動や高知県美術展覧会(高知県展)などで活躍した[1]

83歳を迎える1982年(昭和57年)に高知県内で死去した[1]。同じ年に生まれた山名文夫は、1980年(昭和55年)1月14日に亡くなっている。

没後22年が経過した2004年(平成14年)10月16日 - 12月12日、愛媛県にある「高畠華宵大正ロマン館」で、「大正イマジュリィの6人展 - 非水・夢二・華宵・六郎・かいち・北烏 -」と題し、山の戦前の作品等が展示された[1]2006年(平成18年)に開かれた第60回高知県展では、グラフィックデザイン部門に同年から「山六郎賞」が設置された[3]

おもなビブリオグラフィ 編集

著書 編集

装丁・挿絵 編集

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  1. ^ a b c d e f g #外部リンク内の「高畠華宵大正ロマン館」公式サイト内の「山六郎」リンク先の記述を参照。
  2. ^ a b #外部リンク内のクラブコスメチックス公式サイト「資料室」リンク先の記述を参照。
  3. ^ 高知新聞朝刊、2006年07月04日付記事「県展全部門に新人賞 60回の節目で大賞も」の記述を参照。

外部リンク 編集

  • 山六郎 - 高畠華宵大正ロマン館公式サイト内
  • 資料室 - クラブコスメチックス公式サイト内の社史