ジョージ・ロバート・カーター
ジョージ・ロバート・カーター(George Robert Carter、1866年12月28日 – 1933年2月11日)は、1903年から1907年にかけてアメリカ合衆国自治領ハワイ準州(Territory of Hawaii)の知事を務めた人物[1]。
ジョージ・ロバート・カーター | |
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第2代 ハワイ準州知事 | |
任期 1903年11月23日 – 1907年8月15日 | |
任命者 | セオドア・ルーズベルト |
前任者 | サンフォード・ドール |
後任者 | ウォルター・フリアー |
個人情報 | |
生誕 | ジョージ・ロバート・カーター 1866年12月28日 ハワイ王国ホノルル |
死没 | 1933年2月11日 (66歳没) ハワイ準州ホノルル |
国籍 | ハワイ、アメリカ |
政党 | 共和党 |
配偶者 | ヘレン・ストロング・カーター |
出身校 | フィリップス・アカデミー、イェール大学 |
職業 | 銀行家、政治家 |
来歴
編集カーターは1866年、実業家の父ヘンリー・カーターと宣教医ゲリット・ジャッドの娘であるシビルの子としてホノルルに生まれた[2]。ホノルルのマッキンリー高校を卒業後、アンドーバーのフィリップス・アカデミー、イェール大学で教育を受けた[3]。1982年4月19日にイーストマン・コダック社の社長、ヘンリー・ストロングの娘であるヘレンと結婚し、4人の子供をもうけた。
シアトル国立銀行に勤めた後にハワイに戻り、ホノルルのC.Brewer&Co社に勤務、1898年から1902年にかけてHawaiian Trust CompanyやHawaiian Fertilizer Companyといった会社のマネジメントを手がけた。また、ハワイ銀行やAlexander&Baldwin社のディレクターも兼務していた。
1901年、カーターはオアフ島からハワイ準州上院議員に選出されると、ハワイ領土問題に携わる担当責任者として任命された。1903年には連邦地裁判事となるため辞任したサンフォード・ドールの後を継いでハワイ準州知事に任命された。1905年に新しい行政区画として郡を導入し、現在に至っている。1907年に辞任した後も政治家として活動を続け、1933年2月11日に死去し、オアフ島の墓地へ埋葬された。
また、ハワイ歴史協会のメンバーとして散逸したハワイ王国時代の書籍集積や歴史研究に尽力しており、そのコレクションは1922年にミッションハウスミュージアムへと寄贈されている。
脚注
編集- ^ “George R. Carter is Dead in Hawaii”, The New York Times: p. 15, (1933-02-13) 2009年9月9日閲覧。
- ^ George R. Carter and Mary H. Hopkins, ed (July 1922). A record of the descendants of Dr. Gerrit P. Judd of Hawaii, March 8, 1829, to April 16, 1922. Hawaiian Historical Society
- ^ Dyke, C. Y., ed. (1957), Biographical Sketches of Hawaii's Rulers (8 ed.), Honolulu: Bishop National Bank of Hawaii, p. 22