雲照院

日本の歴史上の人物

雲照院(うんしょういん、? - 寛永5年8月18日1628年9月5日〉)は、戦国時代から江戸時代初期の女性。杉原家次の娘で木下家定の正室。名はあこ、もしくは、おあこ小早川秀秋らの母。法名は雲照院殿齢岳永壽大禅定尼。

経歴

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丹波国福知山城主および近江国坂本城主の杉原家次の娘として産まれる。伯母には夫・家定の母である朝日殿がいる。なお、年齢の離れた弟に但馬国豊岡藩主・杉原長房がいる。

杉原定利の子で、後に足守藩初代藩主となる、いとこの木下家定に嫁いだ。その足守藩で江戸時代にまとめられた『木下家譜』ではおあこ(雲照院)は次男の利房延俊俊定秀俊(秀秋)出雲守の6人の子の生母と書かれているが、『寛政重修諸家譜』や諸系図では、利房、延俊、秀俊の3人だけの生母と書かれている[1]

また、木下勝俊(長嘯子)の生母は『木下家譜』では「家女」と『寛政重修諸家譜』等では「某氏」と書かれている。長嘯子の歌集『挙白集』に記されている追悼の和歌[2]など複数作に勝俊が彼女を母として慕っている内容がある[3]が、生みの親であるとする史料はない[4]

京都府・高台寺の開山堂には彼女の木像が夫の木像などとともに、また、大分県・松屋寺には彼女の肖像画が夫と伯母らの肖像画とともに納められている。

関連書籍

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脚注

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  1. ^ 家定にはこの他に木下秀規という子がいたが、大坂の陣に参加して戦没したため、系図から除かれている。
  2. ^
    問かしな泪ばかりをつゝみもて今はよそなる袖のたち花、とへかしなともにつゝみしうれしさよ今はよそなる袖の立ばな

    —長嘯子『挙白集』

  3. ^ 息子・木下延俊が家臣に記させた日記に、延俊が帰省した実家での食事や入浴の様子が記されている。以下、その日記より。
    :「雲照院様御見廻、御ふろ御座候。」(四月七日の条)
    :「御風呂へ雲照院さま御入り成され候。御風呂上りの御振舞い御座候(御馳走接待)。」(六月二十八日の条)
    一方、日記には延俊から彼女へたばこを贈ったことについても記されている。
  4. ^ なお、勝俊、利房兄弟は若狭武田氏の武田元明京極竜子の息子だという説があるが、少なくとも両者の生年では勝俊の親にはなりえない。おあこは父親の年齢から推測するに、1540年代末から1550年代前半までに産まれたものと思われ、利房が初めての子だとしても確実に1560年より前の生まれとなり、おそらく享年は70代と思われる。

参考文献

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