建部七郎右衛門

日本の安土桃山時代~江戸時代初期の近江商人。近江国人衆建部重武の子で、同郷の田付新助と共に蝦夷地松前への航路を開き、経済発展に尽力

建部 七郎右衛門(たけべ しちろうえもん、生没年不明)は、安土桃山時代から江戸時代初期、蝦夷地進出の先駆けとなった近江商人屋号は材木屋。

生涯 編集

建部七郎右衛門、は元重と言う。建部家は天正元年(1573年)織田信長との戦いに敗れ一家離散、七郎右衛門は近江愛知郡柳川(現滋賀県彦根市柳川町)に暮らし、武士を捨てたとされる。七郎右衛門は天正16年(1588年野菜類の種子行商で松前(現北海道松前郡松前町)に渡り、その後度々近江と松前を往復した。天正18年(1590年)には、松前の蠣崎慶広豊臣秀吉との謁見を勧めたと伝えられる[1][2]

なお、建部家過去帳によると建部元重は元禄4年(1691年)に数え77歳で死去、元重の父重武は寛永12年(1635年)死去とされている。過去帳に従うならば前項記載事項(蠣崎慶広への秀吉謁見の話等)や、七郎右衛門が同郷の田付新助の相談に乗った結果、新助が慶長年間(1596年 - 1615年)に津軽鰺ヶ沢渡島国津軽郡福山(現北海道松前郡松前町字福山)に出店したとの話もありえないことになる[1]

但し、七郎右衛門が江戸時代初期に松前進出を果たし巨利を得、若狭小浜越前敦賀で大船を建造し、主に味噌や生活用品を松前に運び、松前からは材木を上方に運んだ(北前船)とされ、屋号も『材木屋』と称していたことは事実である[1]。建部氏の氏神である大宮神社(彦根市柳川町)には、七郎右衛門の持ち船(韋駄天丸・自在丸)が描かれた『松前渡海絵馬』が奉納されている。

脚注 編集

  1. ^ a b c 「北海道『海』の人国記」(伊藤孝博著 無明舎出版 2008年)
  2. ^ 「北海道 第1巻」(北海道庁 1918年)

建部七郎右衛門元重の足跡 編集