日根野要吉郎
日本の宮内省官僚 (1853-1932)
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日根野 要吉郎(ひねの ようきちろう、1853年1月24日〈嘉永5年12月15日〉[1] - 1932年〈昭和7年〉5月28日[2])は、日本の宮内省官僚。宮中顧問官。位階および勲等は正三位・勲二等。
官歴
編集- 1872年(明治5年)5月10日 - 宮内省九等出仕[3]
- 1873年(明治6年)7月19日 - 免 出仕[3]
- 1873年(明治6年)8月12日 - 陸軍省九等出仕[3]
- 1878年(明治11年)7月2日 - 宮内省御用掛兼勤[3]
- 1884年(明治17年)6月11日 - 宮内省八等出仕、侍従職付[3]
- 1887年(明治20年)12月28日 - 依願免本官、侍従職勤務、月報六十円下賜[3]
- 1896年(明治29年)6月11日 - 任 侍従、叙六等、賜四級俸[3]
- 1897年(明治30年)10月8日 - 宮城県鍛冶谷沢軍馬育成所・青森県三本木軍馬育成所 並 新冠御料牧場へ差遣[4]
- 1899年(明治32年)6月24日 - 福岡県へ差遣[5]
- 1900年(明治33年)5月18日 - 外山御料牧場へ差遣[6]
- 1901年(明治34年)5月17日 - 御料局京都度会両事務所管内巡回[7]
- 1902年(明治35年)9月17日 - 鳥島・八丈島・小島・小笠原島・大島へ差遣[8]
- 1903年(明治36年)5月14日 - 外山御料牧場・下総御料牧場へ差遣[9]
- 1909年(明治42年)2月27日 - 小笠原島・鳥島・八丈島へ差遣[10]
- 1910年(明治43年)12月22日 - 昇叙高等官三等、賜二級俸[3]
- 1912年(明治45年)6月24日 - 賜一級俸[3]
- 1913年(大正2年)5月21日 - 小笠原島・八丈島へ差遣[11]
- 1913年(大正2年)10月15日 - 京都行幸行啓供奉[12]
- 1914年(大正3年)8月2日 - 免 日光行幸行啓供奉[13]
- 1914年(大正3年)5月21日 - 昭憲皇太后霊柩供奉[14]
- 1915年(大正4年)3月13日 - 葉山行幸行啓供奉[15]
- 1917年(大正6年)7月6日 - 久邇宮邦彦王京都帝国大学へ差遣るに随行[16]
- 1918年(大正7年)6月22日 - 陞叙高等官二等、賜二級俸[17]
- 1919年(大正8年)3月1日 - 徳寿宮李太王薨去に付き、午前十時に勅使として徳寿宮へ差遣。[18]
- 1921年(大正10年)10月6日 - 宮中顧問官[19]
- 1932年(昭和7年)5月28日 - 薨去。[20]
栄典・授章・授賞
編集- 位階
- 1894年(明治27年)12月21日 - 正七位[21]
- 1905年(明治38年)1月31日 - 正六位[22]
- 1910年(明治43年)2月10日 - 従五位[23]
- 1915年(大正4年)2月20日 - 正五位[24]
- 1920年(大正9年)2月28日 - 従四位[25]
- 1925年(大正14年)3月16日 - 正四位[26]
- 1930年(昭和5年)4月1日 - 従三位[27]
- 1932年(昭和7年)5月28日 - 正三位[28]
- 勲章等
- 1896年(明治29年)12月25日 - 勲六等瑞宝章[29]
- 1902年(明治35年)12月27日 - 勲五等瑞宝章[30]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 明治三十七八年従軍記章[31]
- 1909年(明治42年)12月25日 - 勲四等瑞宝章[32]
- 1915年(大正4年)12月1日 - 勲三等旭日中綬章[33]
- 1920年(大正9年)11月1日 - 勲二等瑞宝章[34]
- 外国勲章佩用允許
脚注
編集- ^ 『人事興信録 5版』人事興信所、1918年、ひ3頁。
- ^ 『官報』第1623号「彙報 - 官庁事項 - 官吏薨去」1932年5月31日
- ^ a b c d e f g h i 「「宮内大臣正三位勲一等男爵波多野敬直外八十二名」日根野要吉郎 履歴書」 アジア歴史資料センター Ref.A10112795700
- ^ 『官報』第4285号「叙任及辞令」1897年10月12日
- ^ 『官報』第4795号「辞令」1899年6月27日
- ^ 『官報』第5061号「辞令」1900年5月19日
- ^ 『官報』第5360号「辞令」1901年5月18日
- ^ 『官報』第5771号「辞令」1902年9月27日
- ^ 『官報』第5958号「叙任及辞令」1903年5月15日
- ^ 『官報』第7700号「叙任及辞令」1909年3月1日
- ^ 『官報』第242号「叙任及辞令」1913年5月22日
- ^ 『官報』第366号「叙任及辞令」1913年10月16日
- ^ 『官報』第603号「叙任及辞令」1914年8月4日
- ^ 『官報』第543号「叙任及辞令」1914年5月22日
- ^ 『官報』第783号「叙任及辞令」1915年3月15日
- ^ 『官報』第1480号「叙任及辞令」1917年7月7日
- ^ 『官報』第1767号「叙任及辞令」1918年6月24日。
- ^ 『官報』第1972号「宮廷録事 - 勅使並御使」1919年3月3日
- ^ 『官報』第2756号「叙任及辞令」1921年10月7日
- ^ 『官報』第1623号「叙任及辞令」1932年5月31日
- ^ 『官報』第3447号「叙任及辞令」1894年12月22日。
- ^ 『官報』第6474号「叙任及辞令」1905年2月1日。
- ^ 『官報』第7989号「叙任及辞令」1910年2月12日。
- ^ 『官報』第765号「叙任及辞令」1915年2月22日。
- ^ 『官報』第2270号「叙任及辞令」1920年3月1日。
- ^ 『官報』第3799号「叙任及辞令」1925年4月24日。
- ^ 『官報』第976号「叙任及辞令」1930年4月4日。
- ^ 『官報』第1624号「叙任及辞令」1932年6月1日。
- ^ 『官報』第4051号「叙任及辞令」1896年12月28日。
- ^ 『官報』第5848号「叙任及辞令」1902年12月29日。
- ^ 『官報』第7578号・付録「辞令」1908年9月28日。
- ^ 『官報』第7954号「叙任及辞令」1909年12月27日。
- ^ 『官報』第1001号「叙任及辞令」1915年12月2日。
- ^ 『官報』第2711号「叙任及辞令」1921年8月13日。
- ^ 『官報』第6594号「叙任及辞令」1905年6月24日。