飯島光峨
明治時代の日本画家
来歴
編集文政12年5月に田安藩の飯島義重の三男として生まれる。本名は明。後素堂とも号す。日本橋村松町に住む沖一峨に入門、光峨の号を与えられる。一峨は酒井抱一に学んで極彩色の密画をよくしており、後に鳥取藩池田侯の画員沖探冲の養子となっている。一峨の門下には嘉永から安政にかけて松本洋峨、加藤泰峨がおり、光峨とともに一峨門の三峨と呼ばれていた。安政2年(1855年)の一蛾没後は師につかず文芸に親しみ、仮名垣魯文、三遊亭円朝、服部波山らと交遊、東海や畿内方面へも遊歴した。
明治18年(1885年)の第1回鑑画会大会に「桜花」、「秋草」を出品、明治29年(1896年)の日本絵画協会第1回絵画共進会には東洋画の伝統を遵守する第一部に「小児十二ヶ月図」を出品しており、近藤樵仙らとともに二等褒状を受けている。明治33年2月11日、72歳で没す。墓所は深川区の西光寺にあったが、関東大震災後に多磨霊園に改葬された。
作品
編集作品名 | 技法 | 形状・員数 | 寸法(縦x横cm) | 所有者 | 年代 | 落款・印章 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
花下躍鯉図 | 紙本着色 | 1幅 | 177.2x95.4 | 東京国立博物館 | |||
幽霊図 | 1幅 | 全生庵 | 1875年(明治8年) |
参考文献
編集- 日本美術院百年史編集室編 『日本美術院百年史』一巻上(図版編) 日本美術院、1989年