雑賀 元相(さいか もとすけ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将毛利氏の家臣で、長州藩士。父は雑賀隆利。知行は300石。

 
雑賀元相
時代 安土桃山時代 - 江戸時代初期
生誕 天正12年(1584年
死没 寛文5年8月24日1665年10月2日
別名 通称:清四郎→三郎兵衛尉
入道号:元理
主君 毛利輝元秀就綱広
長州藩
氏族 藤原姓雑賀氏
父母 父:雑賀隆利、母:服部豊前守の娘
兄弟 元相正利正相
飯田氏の娘
女(草苅就宗室)、女(毛利元宣室)、就正就宗勝之
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生涯

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天正12年(1584年)、毛利氏家臣である雑賀隆利の子として生まれる。

慶長8年(1603年12月19日毛利輝元から「三郎兵衛尉」の官途名と「元」の偏諱を与えられ[1]慶長10年(1605年4月14日に父・元利が死去し、家督を継いだ。

寛永9年(1632年9月1日毛利秀就から直書を送られ、同年に藩政を引退した益田元祥に代わって当役を務める宍道元兼に民の安全と年貢の徴収が成り立つよう申し渡したので、元相も地下人の不行儀を見聞きし次第に何事も宍道元兼に報告するよう命じられた[2]

寛永15年(1638年2月27日島原の乱において弟の正利正相が戦死する。

寛文5年(1665年8月24日に死去。享年82。子の就正が後を継いだ。

脚注

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  1. ^ 『閥閲録』巻65「雑賀三郎兵衛」第6号、慶長8年(1603年)12月19日付 雑賀清四郎(元相)宛て毛利輝元書状。
  2. ^ 『閥閲録』巻65「雑賀三郎兵衛」第7号、寛永9年(1632年)9月1日付 雑賀三郎兵衛(元相)宛て毛利秀就書状。

参考文献

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