隈川 宗雄(くまがわ むねお、安政5年10月13日1858年11月18日) - 大正7年(1918年4月7日[1])は、日本医学者

隈川宗雄
隈川宗雄
ドイツ留学中の隅川。前列右から2人目

経歴

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福島藩出身。藩医の原有隣の二男として生まれ、隈川宗悦の養子となった[2]1883年明治16年)、東京大学医学部を卒業し、東京大学医学部第一医院当直医・東京大学御用掛となった。1884年(明治17年)から1889年(明治22年)までドイツに留学し、ベルリン大学で学んた。帰国後、駒込病院医長を経て、1891年(明治24年)に東京帝国大学医科大学教授に就任し、医化学講座を担当した。また同年に医学博士の学位を得、1908年(明治41年)に帝国学士院会員にえらばれた。1917年(大正6年)から医科大学長を務めた。

東京大学内に銅像がある[3]

栄典

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著書

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  • 『医化学提要』(克誠堂書店、1914年) 柿内三郎と共著

脚注

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  1. ^ 『官報』第1704号、大正8年4月11日。
  2. ^ 人事興信所編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。
  3. ^ 隈川宗雄日本掃苔録
  4. ^ 『官報』第5451号「叙任及辞令」1901年9月2日。
  5. ^ 『官報』第6995号「叙任及辞令」1906年10月22日。
  6. ^ 『官報』第8544号「叙任及辞令」1911年12月12日。
  7. ^ 『官報』第1330号「叙任及辞令」1917年1月11日。

参考文献

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