酒井 重勝(さかい しげかつ)は、戦国時代から江戸時代初期の武将徳川氏の家臣。

 
酒井重勝
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 天文18年(1549年
死没 慶長18年(1613年5月
別名 与九郎、作右衛門
戒名 成真
墓所 成安寺(埼玉県滑川町
幕府 江戸幕府伏見城
主君 徳川家康
氏族 酒井氏
父母 酒井重元
兄弟 重勝、弥七郎、吉勝、高木善右衛門の妻、神谷清右衛門の妻
天方通興の娘
重正森川氏信の妻、酒井重行の妻、木村久大夫の妻、勝貞
テンプレートを表示

生涯

編集

酒井氏の一族だが、忠次家次らの左衛門尉酒井氏や、正親重忠忠世らの雅楽頭酒井氏とは別家。

若年から徳川家康使番として仕えた。元亀3年(1572年三方ヶ原の戦いでは浜松城を守ったが、家康を追う敵軍を迎撃してその後退を助けた。天正6年(1578年田中城攻撃で軍令に反して抜け駆けをしたために追放処分を受け、天正9年(1581年)ようやく許された。天正10年(1582年)の伊賀越えに同道、また天正壬午の乱に従軍したが、その際に指物を敵中に落とし、それを拾った敵に背を差し出して指物を差してもらって帰還し、その豪胆さを称される。天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いでは鎗奉行として従軍。天正13年(1585年)上田合戦では軍監として出陣し、敗走中にも敵の首を取るという高名があった。

天正18年(1590年徳川氏が関東に移封されると、武蔵上総両国に合わせて2,000石を与えられる。文禄元年(1591年)からの文禄の役では名護屋城へ従軍。慶長5年(1600年関ヶ原の戦いでは旗奉行となり、戦後に三河寺部城5,000石と武蔵世田谷にも所領を与えられたほか、近江に1,000石を加増されている。のち伏見城番となって天守馬印を預けられ、寺部城は神谷清右衛門に預けた。慶長18年(1613年)伏見城で死去。5年前に嫡男重正が死去していたため、その子重之が関東の旧領を継承し、その他の領地は当主幼少を理由に収公された。

歴戦の武将として知られ、特に三河国内の合戦で4度の一番槍をなしたため、「四度槍作右衛門」の異名をとった。また家康から槍の長短を尋ねられた時、長槍を是と答えて伏見城中の諸将に信じられたという。

出典

編集