伴野長房
伴野 長房(ともの ながふさ、- 1353年)は、鎌倉時代から室町時代の武士。通称は弥三郎。清和源氏小笠原氏支流伴野氏当主。
時代 | 鎌倉時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 文和2年(1353年) |
別名 | 弥三郎 |
官位 | 出羽守 |
幕府 | 鎌倉幕府、室町幕府 |
氏族 | 清和源氏小笠原氏流伴野氏 |
父母 | 伴野泰行 |
生涯
編集南北朝時代、祖先が霜月騒動で失った信濃国伴野荘の地頭職の回復を目指して、足利尊氏に仕えた。
荘園領家の大徳寺と争い、建武2年(1335年)に大徳寺が雑訴決断所に悪党の交名注文を添えて訴えたが[1]、国司目代の糾弾を無視して、伴野荘の年貢拘留を続けた。室町幕府は長房に対し、訴状に対する反論を提出するよう命じたが、審理は長期化し、領家の影響力は衰退していった。
幕府から京の土御門油小路に邸宅を賜り[2]、康永4年(1345年)には天龍寺落慶供養の後陣髄兵を務めている[3]。貞和5年(1349年)、足利直義と高師直が対立すると師直に付き、小笠原政長とともに、直義のいる高倉邸を包囲している[4]。文和2年(1353年)、南朝勢と直義党が足利義詮を攻めると、京の神楽岡の陣で戦死した[5]。
脚注
編集出典
編集関連項目
編集- 小笠原長房 (若狭守護代) - 同一人物説があった別人。