伴野氏(とものし)は日本の武家。清和源氏小笠原氏の庶流。

伴野氏
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本姓 清和源氏小笠原氏流
家祖 伴野時長
種別 武家
旗本
出身地 信濃国佐久郡伴野荘
著名な人物 伴野時長
伴野長泰
伴野貞祥
凡例 / Category:日本の氏族

歴史編集

鎌倉時代に、小笠原長清の六男時長信濃国佐久郡伴野荘の地頭職を相続し、土着したのが起源とされる。当初は野沢郷に城館を置いた。2代時直の頃には、一遍が伴野荘を訪れている。

源頼家の側近であった、宗家の小笠原長経が失脚すると、伴野氏が小笠原氏一門の嫡家となったが、弘安8年(1285年)の霜月騒動では、3代長泰をはじめ一族の多くが、姻戚の安達泰盛に連座して没落し、伴野荘も北条氏に没収され、小笠原氏の嫡家は六波羅評定衆小笠原長政の子・小笠原長氏に移った。長泰の三男の泰房は安達氏の旧領三河国に逃れ、その子孫が幡豆小笠原氏の祖となった。

一方、信濃に残った一族は建武の新政を機に再起を図り、5代長房らが足利尊氏に与して活躍し、室町時代初期には伴野荘の地頭職を巡って領家の大徳寺と争った。6代長信は明徳3年(1392年)に足利義満相国寺落慶供養の先陣髄兵を務めている。寛正4年(1463年)には在京して奉公衆を務めた貞棟が上総介の受領名を望み、幕府に進物を送り参上した(『蜷川親元日記』)[1]。先代の上総介も永享年間に太刀や馬を進上している[2]

戦国時代初期には、大永元年(1521年)に貞祥が叔父の僧節香徳忠を開山として貞祥寺を開基している。享禄3年(1530年)貞慶は、蓮華定院を伴野氏一族や領民の高野山詣の際の宿坊に定めているが、これは大井氏や海野氏など、他の東信濃の武家も同様であった[3]

また文明年間ころから、同族の大井氏と所領をめぐって争い、光利の代に前山城を築いて野沢から本拠地を移した。同11年(1491年)には、大井政朝を生け捕りとした。永正6年(1506年)には将軍足利義尹関東管領上杉顕定に命じて、貞慶と大井行満の争いを停止させている[4]。大永7年(1527年)には光信が大井氏に敗れ、甲斐国武田信虎を頼った[5]。この頃には本家の前山伴野氏に対し、分家の野沢伴野氏が台頭し、前山伴野氏は天文9年(1540年)、野沢伴野氏は同18年(1549年)にそれぞれ武田氏に臣従し[6]武田氏信濃侵攻を開始すると、先方衆として活躍した。永禄10年(1567年)の生島足島神社起請文には野沢伴野氏の当主信是らのものが残されている[7]

天正10年の天正壬午の乱では後北条氏に与したため、徳川方の依田信蕃に攻められ、前山伴野氏の当主信守が討死した[8]。その子・貞長は佐久郡相木で挙兵したが、小諸城主の依田康国と戦い、同郡白岩で敗死し、嫡流の前山伴野氏は滅亡した。

江戸時代には、時長の六世孫の貞元を祖とする庶流の伴野貞政が、武田氏の遺臣として徳川家康から旗本に取り立てられてた[9]

脚注編集

  1. ^ 「信濃中世武家伝」p.269
  2. ^ 「長野県史 通史編 第3巻」p.152-153
  3. ^ 「長野県史 通史編 第3巻」p.607
  4. ^ 「長野県史 通史編 第3巻」p.175
  5. ^ 柴辻俊六編「武田信虎のすべて」、新人物往来社、p.201-202(2007)
  6. ^ 大石泰史著 「全国国衆ガイド」星海社、p.182(2015)
  7. ^ 「信濃中世武家伝」p.272
  8. ^ 「長野県史 通史編 第3巻」p.371
  9. ^ 寛政重修諸家譜 巻第200」

参考文献編集

  • 『長野県百科事典』 信濃毎日新聞社、1974年
  • 『長野県姓氏歴史人物大辞典 角川日本姓氏歴史人物大辞典20』 角川書店、1996年
  • 『長野県史 通史編 第3巻 中世2』
  • 田中豊茂『信濃中世武家伝』信濃毎日新聞社 2016年

関連項目編集