山中幸義
山中 幸義(やまなか ゆきよし、1849年3月12日(嘉永2年2月18日[1][注 1])- 1899年(明治32年)3月19日[2])は、明治期の内務官僚、政治家。貴族院多額納税者議員。幼名・麟趾、麟司[1]。
経歴
編集豊前国宇佐郡、のちの大分県宇佐郡高家村[3][4](四日市町を経て現宇佐市)で山中柳平の四男として生まれ、従兄弟・山中幸左衛門[注 2]の養子となる[1]。
漢籍を鷺海量容、広瀬林外に師事した[1]。1868年(明治元年)澤宣嘉九州鎮撫総督が長崎に着任後、それに従い戊辰戦争に従軍した[1]。その後、慶應義塾で学んだ[1][4]。
1873年(明治6年)6月、司法省十三等出仕となり[1][2]、同年7月、権少解部に就任[3]。1874年(明治7年)3月、内務省に転じ新治県少属となる[3]。以後、茨城県少属、千葉県少属、同県三等警部権中属、六等警視属、内務五等属、検事補、内務属判任官二等などを歴任[3]。1884年(明治17年)9月、三重県安濃郡長兼奄芸・河曲郡長に就任[1][3]。その後、山梨県警部長、和歌山県警部長、大分県警部長を務め[1][2]、1897年(明治30年)5月に退官した[3][4]。
1897年9月、農工銀行設立委員に就任[3]。同年5月、貴族院多額納税者議員選挙で互選され[1]、同年9月29日に就任し[3][5]、1899年の第13回帝国議会会期中に倒れ、東京の宿舎で同年3月に死去した[2][3][4][6]。
脚注
編集注釈
編集出典
編集参考文献
編集- 金井確資編『貴族院多額納税議員列伝』金井確資、1899年。※頁付無し。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『大分県歴史人物事典』大分合同新聞社、1996年。
- 「山中氏と山中幸義」『宇佐文化』第113号、宇佐史談会、1942年。