プルデン(Pruden)ことプルデンシオ・サンチェス・エルナンデス(Prudencio Sánchez Hernández、1916年9月1日 - 1998年2月2日)は、スペインバビラフエンテ出身の元サッカー選手。ポジションはフォワード

プルデン
名前
本名 プルデンシオ・サンチェス・エルナンデス
Prudencio Sánchez Hernández
ラテン文字 Pruden
基本情報
国籍 スペインの旗 スペイン
生年月日 (1916-12-01) 1916年12月1日
出身地 バビラフエンテ
没年月日 (1998-02-25) 1998年2月25日(81歳没)
選手情報
ポジション FW
ユース
スペインの旗 サラマンカ
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1939-1940 スペインの旗 サラマンカ 13 (3)
1940-1941 スペインの旗 アトレティコ・マドリード 22 (33)
1941-1943 スペインの旗 サラマンカ 28 (27)
1942-1948 スペインの旗 レアル・マドリード 81 (58)
1948-1949 スペインの旗 サラゴサ  ? (?)
1949-1950 スペインの旗 プルス・ウルトラ 23 (17)
通算 167 (138)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

クラブ経歴

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1939-40シーズン、UDサラマンカにてプロデビュー。翌シーズンにアトレティコ・マドリードへと移籍すると、いきなりリーグ戦33ゴールを叩き出し、ラ・リーガ得点王の座を勝ち取った。プルでんの活躍もあり、アトレティコ・マドリードは昨シーズンのリーグ優勝と合わせてクラブ史上初のリーグ2連覇を達成した[1]

しかし、マドリードの環境に適応できず、わずか1シーズンで自身が育ったクラブであるUDサラマンカに復帰した。当時サラマンカはセグンダ・ディビシオンに在籍していたが、プルデンは2シーズン連続で2桁ゴールを記録するなど奮闘。だが奮闘虚しくサラマンカは1942-43シーズンにテルセーラ・ディビシオンへと降格してしまった[1]

1943年、6年間もタイトルから遠ざかっていたレアル・マドリードに移籍した。最初の2シーズンは結果が出せずにいたが、3シーズン目から徐々にその実力を取り戻し、1945-46シーズンは22ゴール、1946-47シーズンは20ゴールと得点を量産した。レアル・マドリードもプルデンが活躍したこの2シーズンの間にコパ・デル・レイを2連覇している。1949-50シーズン終了後、現役を引退した[1]

人物

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  • レアル・マドリード時代、ストライカーとして活躍したが、決めた得点の多くは泥臭いものが多く、決して美しいものではなかった。そのため、試合後のユニフォームはいつも茶色に染まっていた[2]

タイトル

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クラブ

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アトレティコ・マドリード
レアル・マドリード

脚注

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  1. ^ a b c la posguerra, Zamora y la primera Liga en 1940” (スペイン語). as. 2021年3月5日閲覧。
  2. ^ El hombre que salvó al Madrid del descenso” (スペイン語). La Garerna (2017年12月1日). 2021年3月5日閲覧。

外部リンク

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