クトルク
クトルク(モンゴル語: Qutluq、定宗2年(1247年) - 大徳10年1月6日(1306年1月20日))は、13世紀後半にモンゴル帝国に仕えたジャアト・ジャライル部出身の将軍。
『元史』には立伝されていないが、『至正集』巻38「札剌爾公祠堂記」に「札剌爾(ジャライル)公」としてその事蹟が記される。『新元史』には「札剌爾公祠堂記」を元にした列伝が記されている。なお、「札剌爾公祠堂記」は諱を「忽魯忽都」と表記するが、『新元史』は「忽図魯」と表記する。
概要
編集クトルクは、モンゴル帝国建国の功臣ムカリの弟のタイスンの孫に当たる人物である。タイスンの子のトゥメテイは才識あることで知られ、四川侵攻に加わって嘉定府攻略に功績を挙げた。トゥメテイにはジャルグとクトルクという息子がおり、長男のジャルグは征南万戸の地位にあったが南宋との戦いで戦死してしまった。南宋侵攻の総司令であるバヤン丞相は未だ幼いジャルグの息子ではなく弟のクトルクがジャルグの地位を継承するよう働きかけたため、クトルクは一族の軍団を率いて南宋平定戦に従事することになった。至元15年(1278年)には昭勇大将軍兼揚州路総管府ダルガチとされ、官位は昭毅大将軍から昭武大将軍に進んだ[1]。
浙東の楊震龍が叛乱を起こした際にはこれを討伐し、周辺の賊も風聞を聞いてクトルクに降った。ジャルグの息子のシャウチン(舒温真)が成長するとクトルクは地位を譲ったが、江南行台はクトルクの才幹を見込んで福建閩海道粛政廉訪使に任じた[2]。オルジェイトゥ・カアン(成宗テムル)が即位すると、クトルクは宣慰使都元帥・鎮国上将軍とされ、葛蛮宣撫司に招かれた。そこでクトルクは錫布・喇台・乞即・落東などを平定し、諸部族の酋長の羅陳・羅何・羅廉らも50戸を率いて降った。クトルクは酋長らを率いてオルジェイトゥ・カアンに入観したが、オルジェイトゥ・カアンは大いに喜んで金織衣を賜り、酋長らには官職を与えたという[3]。
大徳2年(1298年)、広西両江道に移り、叛乱を起こした易奚晩・高仙道らを討った。また翌年には羅光殿・羅伯牛・羅仲顕らが3万4千戸を率いて降った。大徳7年(1303年)、輔国上将軍として浙東道に移ったが、翌年には母のため所領(投下領)の東阿県に戻った。その後、大徳10年(1306年)正月6日に病により60歳で亡くなった[4]。
クトルクには4人の息子がおり、寧国路総管となった仏保、早世したアルタン・ブカ、「札剌爾公祠堂記」を立てた安僧[5]、兵部尚書秩嘉議大夫となったボロトらがいた[6]。
ジャアト・ジャライル部タイスン家
編集脚注
編集- ^ 『至正集』巻38札剌爾公祠堂記,「按桓粛公、諱忽魯忽都、伯祖木華里、開国有大功、略地中原、首降東平、封太師国王。祖帯孫、封東阿郡王考。禿満䚟嗣封。公夙著才識。世祖命攻蜀、嘉定諸城降之、賜金符。再統蒙古軍五枝、万人。至元五年、召帰。擢監本属兄札剌忽征南万戸、戦歿。丞相伯顔、奏公襲其職。征未下州郡、鎮維揚。十五年、以昭勇大将軍兼揚州路総管府達魯花赤、官制分遂復旧職進昭毅大将軍、又進昭武」
- ^ 『至正集』巻38札剌爾公祠堂記,「浙東楊震龍寇擾、公討之。賊聞風降、監真定・河南上万戸。兄子舒温真長、慨然帰之。行台薦其行、除福建閩海道粛政廉訪使。不為苛刻按部粛然八番部雑民夷時時弄兵」
- ^ 『至正集』巻38札剌爾公祠堂記,「元貞初、選公為宣慰使都元帥、鎮国上将軍。建議立葛蛮宣撫司、招来之。錫布・喇台・乞即・落東等番、恃険怙終躬、平之。部落帰者三千戸。設教条、明戒賞、俄龍平連思・婁浴・暮梅・求那諸夷、皆願受約束。明年、蛮酋羅陳・羅何・羅廉部、其民五十戸降、公領其酋入観。成宗大喜、賜金織衣、且官其酋」
- ^ 『至正集』巻38札剌爾公祠堂記,「大徳二年、移広西両江道、猺獠柔梗不常靖以一之、戮稔悪者易奚晩・高仙道、遂深入左右江渓峒経画。明年、地州守羅光殿・羅伯牛・天州守羅仲顕各率所部降者、三万四千戸、司憲薦最。七年、以輔国上将軍、移浙東道、為政益務寛簡、有古長人之風焉。八年、丁太夫人憂帰東阿。十年正月六日、以疾終、年六十、葬柯亭之原」
- ^ 『至正集』巻38札剌爾公祠堂記,「延祐丁巳、制贈輔国上将軍・浙東道宣慰使・都元帥札剌爾公・奉国上将軍・江浙等処行中書省参知政事・護軍東平郡公、諡桓粛。子安僧、立祠東阿黄山走書諗有壬曰、先公葬有兆祭有家別業有祠又用郷人意而永吾孝思焉子熟我家記其勿辞」
- ^ 『至正集』巻38札剌爾公祠堂記,「子四人、長仏保、東平郡太夫人邢氏出、寧国路総管、卒。次按壇不花、早世。次安僧、寧国母弟、歴八番淮東福建三道宣慰使秩通奉大夫。次孛羅、東平郡太夫人黄氏出、今兵部尚書秩嘉議大夫」
参考文献
編集- 志茂碩敏『モンゴル帝国史研究 正篇』東京大学出版会、2013年