王 景(おう けい、後至元2年(1336年)- 永楽6年7月13日1408年8月4日))は、明代官僚学者は景彰、は常斎。本貫処州松陽県

生涯

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洪武初年、懐遠教諭となった。博学なことから洪武帝の詔に応じ、宗廟祭祀における音楽の詩詞を作り、諸侯王の朝見儀礼を定めた。官を歴任して山西参政となったが、後に雲南に流された。建文元年(1399年)、張紞の推薦により南京に召還され、礼部侍郎・兼翰林院侍講となった。董倫とともに『太祖実録』編纂の総裁官をつとめた[1]

建文4年(1402年)、永楽帝が即位すると、王景は翰林院学士に抜擢された。永楽帝が建文帝の葬礼について諮問すると、王景は頓首して「天子の礼を用いるべきです」と答えた。帝はその言に従った。

永楽6年7月13日(1408年8月4日)、王景は在官のまま死去した。享年は73。著書に『玉堂稿』[2]があった。

妻子

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  • 毛氏(先立って死去した)
  • 李氏(後妻)
  • 王宏
  • 王荊(早逝)
  • 王誠
  • 王信克(後嗣)
  • 王貫

脚注

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  1. ^ 明史』廖昇伝
  2. ^ 黄虞稷『千頃堂書目』巻18

参考文献

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  • 明史』巻152 列伝第40
  • 翰林院学士王公景彰墓碑銘(徐紘『明名臣琬琰録』巻13所収)