イングヴァリ・イゴレヴィチ

イングヴァリ・イゴレヴィチロシア語: Ингварь Игоревич、? - 1235年?)は歴代リャザン公のうちの1人であり、在位は1217年 - 1235年とされる。イーゴリ・グレボヴィチの子。

1207年、ウラジーミル大公フセヴォロド(大巣公)がチェルニゴフ公国への遠征を行った際、他のリャザン諸公と共に、背信を疑われてフセヴォロドにより投獄された。フセヴォロド死後の1212年に、後を継いだユーリーによって釈放された。

1217年、リャザン公位にあった(諸説あり)グレプイサドィ諸公会議を開催し、6人のリャザン諸公を謀殺するが、イングヴァリと弟のユーリーは諸公会議への出席を見合わせており、難を逃れた。1219年にウラジーミル大公ユーリーの支援を得て、グレプとそれを支援するポロヴェツ族軍に勝利した[1]

1220年、リャザン近郊(現リゴヴォ(ru))に修道院(現オレグ・ウスペンスキー修道院(ru)の前身)を建設したとされている[2]。なお、修道院はモンゴルのルーシ侵攻の過程において1237年に焼失している。

イングヴァリの没年を1235年とする説があり、その説の根源はおそらくV.タチシチェフ(ru)の説であるが、この没年の根拠となる史料はない[3]。在位に関しては、ルーシの年代記(レートピシ)には、1217年からリャザン公位にあったとされるが、1217年前後の記事において、イングヴァリのリャザン公位着任に関する記述はない。『ノヴゴロド第一年代記』では、1237年のモンゴル帝国軍によるリャザンへの攻撃(リャザン包囲戦)時のリャザン公は弟のユーリーであると記されている。また、息子とされるイングヴァリ(ru)とは、同名の親子であるのか、同一人物であるのかで見解が分かれている[3]。同一人物であるならば、モンゴルのルーシ侵攻以降も存命であり、かつ、『バトゥのリャザン襲撃の物語』の記述を史実とするならば[4]、リャザン公としてリャザンの復興に尽力した人物となる。

出典 編集

  1. ^ Энциклопедический словарь Брокгауза и Ефронаブロックハウス・エフロン百科事典
  2. ^ Добролюбов, Иоанн Васильевич. Историко-статистическое описание церквей и монастырей Рязанской епархии, ныне существующих и упраздненных. В 4-х тт. - Т.1. — Зарайск: Типография А.Н. Титовой, 1884. — С. 64-67. — 363 с.
  3. ^ a b Литвина А. Ф. Успенский Ф. Б. Выбор имени у русских князей в X—XVI вв. Династическая история сквозь призму антропонимики. — М.: Индрик, 2006.
  4. ^ 中村喜和訳「バツのリャザン襲撃の物語」 // 『ロシア中世物語集』筑摩書房、1985年。P237