カイドゥ (オロナウル部)

13世紀に活躍したモンゴル帝国の将軍

カイドゥモンゴル語: Qaidu、? - 1279年)は、13世紀に活躍したモンゴル帝国の将軍。

概要

編集

カイドゥはモンゴル帝国の建国の功臣の一人で、バルジュナ湖の水をすすった「バルジュナト」の一人にも数えられるアジュルの孫にあたる人物である。アジュルの死後は息子のブカ(不花)が跡を継いだが、ブカが早世するとその息子の忽都答児はまだ幼かったため、ブカの兄の子にあたるカイドゥが地位を継承することになった[1]

中統3年(1262年)、李璮が叛乱を起こすと、カイドゥは親王カビチ率いる叛乱平定軍に加わり、李璮の拠る済南城を包囲した。同年4月、李璮が夜間に出撃すると、カイドゥがこれを撃退し斬首100級・捕虜200人余りを得る功績を挙げた。7月に済南城が陥落すると、カビチは叛乱平定におけるカイドゥの功績を高く評価したため、カイドゥは金虎符を与えられた。その後、モンゴル・漢軍の混成軍を率いて海州を攻め、淮南の廬州を攻略する功績を挙げている[2]

至元3年(1266年)、邳州監戦万戸に任命され、至元4年(1267年)より山東路統軍司を率いて南宋との戦いに携わるようになった。カイドゥが襄陽に至り漢江を渡ると、南宋水軍がその帰路を絶ったため、カイドゥは南宋水軍に水上戦を挑み南宋の戦艦20隻を奪い斬首千級余りを得る勝利を収めた。至元6年(1269年)、淮南の五河口で南宋軍を破り、至元7年(1270年)には命を受けて鹿門山・白河口・一字城を守った。至元9年(1272年)春、カイドゥは樊城の7層からなる古城堡を攻めることを申し出、カイドゥは夜間に士卒を率いてこれを奪い、南宋の将の韓撥発を斬って蔡路鈐を捕虜とする功績を挙げた。襄陽城が陥落した後、カイドゥ率いる軍団は淮安などを巡った後、正陽に帰還し、安豊一帯を平定した[3]

至元11年(1274年)、南宋の将軍の夏貴が正陽を攻めてくるとカイドゥは歩兵を率いて淮河西岸に迫り、横河口においてこれを撃退し、同年9月には安慶を平定した。至元12年(1275年)には一度長江を北に渡り、柵江堡に至ったところで南宋軍3000と遭遇しこれを破った。その後再び南に長江を渡り鎮江に駐屯し、南宋の平江軍が常州に出たことを察知すると1千の兵を率いて出撃し、再びこれを破った。同年7月、行省の命を受けてカイドゥは焦山江岸を守り、更に揚州の湾頭に赴いて木城を立てこれを守った。9月、権枢密院事の地位を授かって再び鎮江に戻り、南宋の張殿帥・安撫の劉師勇が呂城を攻めるとカイドゥは万戸のクラチュ・テムルらとともに出撃し張殿帥・范総管らを捕虜とする功績を挙げた。10月、アタカイとともに常州を攻め、南宋の朱都統が常州救援のために接近しているのを知ると、カイドゥは横林店でこれを破った。11月には蘇州を奪取し、臨安より東の新たに征服した地方を治めた[4]

至元13年(1276年)、サルバン・テムル・張弘範らとともに温州福建に進出し、この一帯を平定した。至元14年(1277年)、鎮国上将軍・浙東宣慰使の地位を授かり、台州慶元府で未だ抗う者たちを討伐した。 カイドゥは黄奢嶺・温州の白塔屯寨などで旧南宋兵と戦い、漳州泉州興化軍を転戦してこの方面を平定した。至元16年(1279年)、クビライに謁見して玉帯・弓矢を下賜され、再び南下して処州に至った所で病死した[5]

死後、息子の八忽台児が地位を継いで通奉大夫・浙東道宣慰使都元帥の職を授けられている[6]

脚注

編集
  1. ^ 『元史』巻123列伝10阿朮魯伝,「阿朮魯、蒙古氏。……諸王塔察児以阿朮魯年老、俾其子不花襲職。中統二年、不花卒、子幼、兄子懐都継領其職」
  2. ^ 『元史』巻123列伝10阿朮魯伝,「中統三年春、李璮叛、詔懐都従親王哈必赤討之、囲璮済南。夏四月、璮夜出兵、四面衝突求出、懐都直前奮撃、斬百餘級、俘二百餘人、奪兵仗数百、璮退走入城、懐都晝夜勒兵与戦。秋七月、破済南、誅璮。哈必赤第其功、居最、詔賜金虎符、領蒙古・漢軍、攻海州、略淮南廬州」
  3. ^ 『元史』巻123列伝10阿朮魯伝,「至元三年、充邳州監戦万戸。四年、領山東路統軍司、従主帥南征。至襄陽、西渡漢江、宋遣水軍絶帰路、懐都選士卒浮水殺宋軍、奪戦艦二十餘艘、斬首千餘級。六年、軍次淮南天長、至五河口、与宋兵戦、敗之。七年、詔守鹿門山・白河口・一字城。九年春、懐都請攻樊之古城堡、堡高七層、懐都夜勒士卒、親冒矢石、攻奪之、斬宋将韓撥発、擒蔡路鈐。襄陽既降、帥師屯蔡・息、出巡淮安、還城正陽、略地安豊、獲生口無算」
  4. ^ 『元史』巻123列伝10阿朮魯伝,「十一年夏、宋将夏貴来攻正陽、懐都領歩卒薄淮西岸、至横河口、逆戦退之。九月、略地安慶。十二年、北渡、至柵江堡、値宋軍三千餘、懐都与戦、敗之。復南渡江、駐兵鎮江、諜報宋平江軍出常州、懐都領兵千人、至無錫、与宋兵遇、大戦、殲其衆。秋七月、行省檄懐都領軍護焦山江岸、仍往揚州湾頭立木城、以兵守之。九月、権枢密院事、復守鎮江。宋張殿帥・安撫劉師勇攻呂城、懐都与万戸忽剌出・帖木児追戦至常州、奪舟百餘艘、擒張殿帥・范総管。冬十月、従右丞阿塔海攻常州、宋朱都統自蘇州赴援、懐都提兵至横林店、与之遇、奮撃大破之。十一月、取蘇州、徇秀州、仍撫治臨安迤東新附軍民」
  5. ^ 『元史』巻123列伝10阿朮魯伝,「十三年秋、同元帥撒里蛮・帖木児・張弘範徇温州・福建、所至州郡迎降。十四年、授鎮国上将軍・浙東宣慰使、討台・慶元叛者、戦于黄奢嶺、又戦于温州白塔屯寨、転戦至于漳・泉・興化、平之。十六年、召至闕下、賜玉帯・弓矢、授行省参知政事、至処州、以疾卒」
  6. ^ 『元史』巻123列伝10阿朮魯伝,「子八忽台児、官至通奉大夫・浙東道宣慰使都元帥、平浙東・建寧盗賊、数有功。不花子忽都答児既長、分襲蒙古軍千戸、従平宋有功、授浙西招討使、改邳州万戸、後加栄禄大夫・平章政事、卒」

参考文献

編集
  • 元史』巻123列伝10阿朮魯伝
  • 新元史』巻132列伝29懐都伝