河目正平
日本の教育者
河目 正平(かわめ しょうへい、1849年12月26日(嘉永2年11月12日) - 1890年(明治23年)8月6日)は、三河国碧海郡熊村(現在の愛知県刈谷市)出身の教育者。
かわめ しょうへい 河目 正平 | |
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生誕 |
河目幸太郎 1849年12月26日 三河国碧海郡熊村 (現在の愛知県刈谷市) |
死没 | 1890年8月6日(40歳没) |
職業 | 教育者 |
子供 | 河目悌二(童画家) |
経歴
編集青年期
編集1849年(嘉永2年)11月12日、河目正平は三河国碧海郡熊村(現在の愛知県刈谷市)に生まれた[1][2]。幼名は幸太郎であり、後に源吾と称し、やがて正平に改めた[1][2]。
教育者
編集刈谷藩の藩校である文礼館の教師を務めていた[3]。明治維新期の1870年(明治3年)7月、刈谷藩の命で大垣藩に遊学し、帰郷すると刈谷学校(現・刈谷市立亀城小学校)、熊村学校、高浜学校(現・高浜市立高浜小学校)、野田学校(現・刈谷市立双葉小学校)で教員を務めた[1][2]。1890年(明治23年)8月6日に40歳で死去した[1][2]。河目には二男二女があった[1]。
死後
編集家族
編集河目正平の子には河目揆一や河目悌二などがいる[4]。長男の河目揆一は1914年(大正3年)まで小高原尋常小学校(現・刈谷市立小高原小学校)の校長を務め、1914年(大正3年)から明治第四尋常小学校(後の和泉小学校、現・安城市立丈山小学校)の校長を務めた[5]。
二男の河目悌二は1889年(明治22年)8月6日に生まれ、1913年(大正2年)に東京美術学校(現・東京芸術大学)洋画科を卒業すると、小林商店(現・ライオン)などで図案家として活躍した[4]。1937年(昭和12年)に小林商店を退社し、戦中にも児童誌の挿絵画家として活動した。