吉次茂七郎
経歴・人物
編集福岡県に生まれる[2]。1911年(明治44年)福岡県立中学修猷館[3]を経て、1914年(大正3年)3月名古屋高等工業学校(現・名古屋工業大学)を卒業[2]。
台湾総督府鉄道部に就職するが、ほどなくして陸軍に志願し、砲兵少尉となる[2]。
除隊後、命令により台湾総督府鉄道部に復職。宜蘭線が着工されるや[2]、1921年(大正10年)に工事現場監督者に抜擢される[4]。三貂嶺隧道と草嶺隧道の工事監督に従事するが、その工事が難航を極め、マラリアに感染し、工事途中で1923年(大正12年)1月19日に死去[1]。
草嶺隧道完成の 1924年(大正13年)10月9日、工事関係者によって、その近くに吉次の功績を称える記念碑「故吉次茂七郎君之碑」が建立されており、日本の統治下では毎年慰霊祭が行われていたと伝えられている。戦後、台湾における日本人に関わる、この種の記念碑や顕彰碑の類はほとんど破壊や撤去がなされたが、吉次の碑は地元住民の強い反対により残された[2]。
草嶺隧道は、1985年(昭和60年)に新しいトンネルが建設され、一時廃道になったが、2008年(平成20年)にサイクリングロード「旧草嶺隧道自転車道」として再び使用されるようになった[4]。
出典
編集- ^ a b 台湾ビジュアル辞典 吉次茂七郎記念碑(新竹市貢寮区) 碑文(2023年11月28日閲覧)
- ^ a b c d e 名古屋工業大学 後藤芳顯「台湾のトンネル工事における吉次茂七郎(大正3年卒)の知られざる業績」(2023年11月28日閲覧)
- ^ 『修猷館同窓会名簿 修猷館235年記念』(修猷館同窓会、2020年)同窓会員9頁
- ^ a b 100年前に台湾のトンネル建設に尽力した本学卒業生 吉次茂七郎氏のご親族の方々がご来学されました 名古屋工業大学 2016年04月22日(2023年11月28日閲覧)