鎌田観応
鎌田 観応(かまた かんおう、1849年6月30日(嘉永2年5月11日) - 1923年(大正12年)8月8日)は、高野山真言宗の僧。管長。金剛峯寺387世座主。尾張国名古屋(現在の愛知県名古屋市)出身。
鎌田 観応 | |
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1849年6月30日(嘉永2年5月11日) - 1923年(大正12年)8月8日 | |
法名 | 観応 |
生地 | 尾張国名古屋 |
宗派 | 高野山真言宗 |
寺院 |
金剛峰寺 東寺 宝性院 百代寺 |
師 |
旭雅 良基 道応 禅城 雲厳 |
生涯
編集尾張国名古屋(現在の愛知県名古屋市)の尾張藩士である松下勘十郎の三男に生まれる[1]。
1860年(万延元年)に播磨国(現在の兵庫県加西市)の百代寺で出家し雲厳の弟子となる。17歳の時に高野山で良基・道応・禅城らに密教を習い、旭雅らに倶舎・唯識を学ぶ[1]。
1868年(明治元年)に高野山大学で教鞭を執り、学頭、法印を歴任[1]。1899年(明治32年)に宝性院門主、1905年(明治38年)に東寺法主・大僧正・東寺派管長を経て、1923年(大正12年)に高野山真言宗の管長と金剛峰寺の387世座主に就任。しかし同年8月8日に死去[2]。
脚注
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