斎藤済一
斎藤 済一(さいとう せいいち[2]、1882年(明治15年)2月16日[3] - 1947年(昭和22年)10月[4])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。栄典は従四位勲三等[4][5][6]
斎藤 済一 | |
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歩兵第29連隊長時代の斎藤済一 | |
生誕 |
1882年2月16日 日本 長野県 |
死没 |
1947年10月 日本 東京都中野区鷺宮 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1905年 - 1937年 |
最終階級 | 陸軍少将 |
勲章 | 勲三等旭日中綬章 |
出身校 |
長野県師範学校 陸軍士官学校 |
配偶者 | とき[1] |
子女 | 忠(男子) 素(女子) 禮(三女)(五女)[1] |
除隊後 | 大日本興亜同盟訓練部長 |
経歴
編集長野県伊那郡福島村出身[3][4]。教育者を志し長野県師範学校に入学し、1902年(明治35年)卒業したが、志を変えて1903年(明治36年)士官候補生として入隊、1905年(明治38年)には陸軍士官学校を卒業(17期)[3][4]。
1922年(大正11年)8月、陸軍歩兵少佐に進級し[7]、1923年(大正12年)9月時点で歩兵第11連隊大隊長の任にあった[7]。1924年(大正13年)9月時点で歩兵第9旅団副官(第5師団[8][9])となり[10]、1926年(大正15年)3月に第5師団副官に転じた[11]。同年8月、陸軍歩兵中佐に進級し[11]、1928年(昭和3年)6月に歩兵第15連隊附(第14師団・歩兵第28旅団[12][13])に移った[14]。
1932年(昭和7年)4月11日に金沢連隊区司令官に着任し[2]、8月8日に陸軍歩兵大佐に進級[2]、1934年(昭和9年)3月に歩兵第29連隊長(第2師団・歩兵第3旅団[15][16])に転じた[2]。1935年(昭和10年)8月、近衛師団司令部附となり[3]、上智大学に配属された[3]。1937年(昭和12年)2月12日、陸軍少将進級と同時に待命となり[2][17]、2月26日に予備役に編入された[18]。
予備役編入後は東京都中野区鷺宮に居住して大日本興亜同盟で訓練部長などを勤める[1]。1947年(昭和22年)66歳で病没した[4]。
脚注
編集- ^ a b c 『人事興信録 第14版 上』人事興信所、1943年 。
- ^ a b c d e 外山 1981, 224頁.
- ^ a b c d e 福川 2001, 322頁.
- ^ a b c d e 上伊那誌編纂会『上伊那誌 : 長野県 第4巻 (人物篇)』上伊那誌刊行会、1970年 。
- ^ 『官報 1935年08月30日』大蔵省印刷局、1935年8月30日 。
- ^ 『官報 1941年10月23日』大蔵省印刷局、1941年10月23日 。
- ^ a b 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 大正12年9月1日調196頁
- ^ 外山・森松 1987, 324頁.
- ^ 外山・森松 1987, 325頁.
- ^ 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 大正13年9月1日調194頁
- ^ a b 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 大正15年9月1日調154頁
- ^ 外山・森松 1987, 397頁.
- ^ 外山・森松 1987, 398頁.
- ^ 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 昭和3年9月1日調136頁
- ^ 外山・森松 1987, 374頁.
- ^ 外山・森松 1987, 375頁.
- ^ 『官報』第3032号「叙任及辞令」1937年2月13日。
- ^ 『官報』第3044号「叙任及辞令」1937年2月27日。
参考文献
編集- 外山操・森松俊夫 編著『帝国陸軍編制総覧』芙蓉書房出版、1987年。
- 福川秀樹 編著『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。ISBN 4829502738。
- 外山操 編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4829500026。