近衛師団

大日本帝国陸軍の師団

近衛師団(このえしだん、旧字体近衞師團)は、大日本帝国陸軍師団の一つ。一般師団とは異なり、最精鋭かつ最古参の部隊軍隊)として天皇と宮城(皇居)を警衛する「禁闕守護」(きんけつしゅご)の責を果たし、また儀仗部隊として「鳳輦供奉」(ほうれんぐぶ)の任にもあたった。

近衛師団
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近衛師団司令部庁舎(~1945年)
東京国立近代美術館工芸館(1977年~2020年)
創設 1891年(明治24年)12月14日
1943年(昭和18年)6月1日
(近衛第1師団及び近衛第2師団に改編)
廃止 1945年(昭和20年)
所属政体 日本の旗 日本
所属組織  大日本帝国陸軍
部隊編制単位 師団
兵種/任務/特性 歩兵
自動車化歩兵 (1940〜))
所在地 東京-台湾-東京-
-東京(近衛第1師団)
-マレー半島-スマトラ島(近衛第2師団)
東京-千葉県(近衛第3師団)
編成地 東京
通称号/略称 宮 (〜1943)
隅 (1943〜)(近衛第1師団)
宮 (1943〜)(近衛第2師団)
範 (1944〜)(近衛第3師団)
補充担任 近衛師管・全国・第1師管東京師管東京師管区
最終上級単位 大本営(近衛第1師団)
第25軍(近衛第2師団)
第52軍(近衛第3師団)
担当地域 宮城
最終位置 東京(近衛第1師団)
スマトラ島 メダン(近衛第2師団)
千葉県 東金(近衛第3師団)
主な戦歴 日清 - 日露 - 二・二六事件
宮城事件(近衛第1師団)
マレー作戦 - シンガポールの戦い(近衛第2師団)
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帝国陸軍における軍隊符号GD(一般師団はD)。太平洋戦争中後期には編制の改編が行われ、最終的には近衛第1師団 (1GD)・近衛第2師団 (2GD)・近衛第3師団 (3GD) の3個近衛師団が編成された。

戦後1955年(昭和30年)頃に、防衛庁陸上自衛隊に事実上の「近衛部隊」を復活させることを計画したが、警視庁皇宮警察などの警察当局の強い反対により実現しなかった(後述)[1]

現在、皇居の警備は主に、警察庁附属機関である皇宮警察本部[注 1]が担っている。

特徴編集

 
1920年代後半、皇太子(近衛歩兵第1連隊附陸軍歩兵大佐)当時の昭和天皇と、儀仗用の騎兵槍を奉じる近衛騎兵連隊の将兵(後方)
 
1924年(大正13年)、皇太子裕仁親王(昭和天皇)・良子女王(香淳皇后)の結婚の儀において、御料車を警護する正衣を着用した近衛騎兵連隊の将兵

将来の天皇(大元帥)となる皇太子東宮)は、西洋社会におけるノブレス・オブリージュを模範として近衛歩兵第1連隊附となるのが通例であり、嘉仁親王(後の大正天皇)・裕仁親王(後の昭和天皇)は近歩1附であった。

近衛師団は禁闕守護の任から衛戍地東京市(現在のほぼ東京23区)であったものの、他の一般師団と異なり、連隊区といった特定地域からの徴兵によるのではなく、大日本帝国全国から選抜された兵士によって充足されていた。近衛兵になることは大変な名誉とされた[2][3]

軍服も一般師団とは区別され、

等の差異が存在した。

また一般師団の下士官兵には基本的に第二装(程度の良い中古品、主に外出や儀式用)・第三装(着古したり傷を補修した中古品、主に普段の勤務や訓練用)の軍装が支給されたのに対し、近衛師団では「ご守衛勤務」で使うための第一装(新品または新品同様。一般師団では主に出征時や戦地の勤務用)もあわせて支給された。

沿革編集

 
近衛師団兵舎(1940年頃)

成立前史編集

江戸幕府を倒し明治新政府が樹立された当初、政府は独自の軍隊を保有しておらず、軍事的には薩摩藩(現:鹿児島県)、長州藩(現:山口県)、土佐藩(現:高知県)の「薩長土」に依存する脆弱な体制であった。そのため1871年(明治4年)、政府は「天皇の警護」を名目に薩長土の3藩から約1万人の献兵を受け、政府直属の軍隊である御親兵を創設し、この軍事力を背景に「廃藩置県」を断行した。この御親兵は、1872年(明治5年)に初代近衛都督西郷隆盛を中心とした近衛兵として改組され、「天皇および宮城(皇居)の守護」という任務が課せられた。

1873年(明治6年)に徴兵令が制定され鎮台兵として配備されると、近衛兵は鎮台兵の軍事訓練も担うこととなった。1874年(明治7年)、近衛歩兵大隊を基幹として近衛歩兵連隊(第1大隊と第2大隊を基幹に近衛歩兵第1連隊、第3大隊と第4大隊を基幹に近衛歩兵第2連隊が新設)が編成され、同1月23日には帝国陸軍では初めて軍旗が近歩1及び近歩2に親授された。

1877年(明治10年)の西南戦争日本史上最後の内戦)では、鍋田川の戦い、田原坂の戦い、城山の戦いに従軍する。翌1878年(明治11年)には近衛砲兵大隊が恩賞への不平から武装反乱する竹橋事件が起こった。

1891年(明治24年)、鎮台が廃止され師団に替わることとなり、山縣有朋によって近衛兵は近衛師団へ改称され、陸軍大臣管轄の下、平時は隷下の各中隊が輪番制で天皇や宮城の警護などに当たり、戦時には野戦師団のひとつとして出征し戦闘に参加することとなった。師団編制となった近衛師団は、数個近衛歩兵連隊を基幹として、それに騎兵・砲兵工兵輜重兵などの特科部隊が統合されていた。

その後、近衛師団は第二次世界大戦終結による大日本帝国陸軍の解散まで各戦争事変紛争に従軍し、出征中の近衛師団に代わって天皇及び宮城の警護に当たった近衛師団は留守近衛師団とされた。初期は留守近衛連隊が、のちには近衛歩兵第6連隊などがそれにあたる。

歴史編集

日清戦争編集

日清戦争に従軍、台湾平定(乙未戦争)で先発する。後発した乃木希典率いる第2師団とともに平定するも、山根信成近衛第2旅団長、北白川宮能久親王近衛師団長をはじめ、多くの戦病死者を出した。

日露戦争編集

日露戦争では第1軍隷下として従軍。長谷川好道率いる近衛師団(近衛第1旅団と近衛第2旅団から構成される)と、 梅沢道治率いる近衛後備混成旅団が出征した。長谷川好道鴨緑江会戦及び遼陽会戦の軍功により朝鮮駐剳軍司令官に就任したため、沙河会戦以降は浅田信興近衛第1旅団長が近衛師団長となった。沙河会戦では旅団長梅沢の功績により、後備近衛混成旅団が「花の梅沢旅団」と呼ばれた。奉天会戦にも参加している。
また、日露戦中の1904年(明治37年)6月15日には、輸送船にて輸送中の後備近衛歩兵第1連隊が玄界灘ロシア海軍ウラジオストク巡洋艦隊装甲巡洋艦3隻の攻撃を受け、軍旗を奉焼し連隊長以下1,000余名が戦死する事件があった(常陸丸事件)。

明治末から大正期編集

1910年(明治43年)5月29日、師団司令部が東京市麹町区代官町2番地に移転[4]

1918年(大正7年)6月20日、兵器部が師団司令部構内で事務を開始[5]

昭和編集

参考までに、1930年(昭和5年)時点の近衛師団の一覧表を示す[6]

近衛師団(昭和5年)
種類 旅団司令部 連隊(聯隊) 大隊
歩兵 近歩第1旅団司令部(東京・北ノ丸
  近衛歩兵第1連隊(東京・北ノ丸)
近衛歩兵第2連隊(東京・北ノ丸)
歩兵 近歩第2旅団司令部(東京・赤坂一ツ木
近衛歩兵第3連隊(東京・赤坂一ツ木)
近衛歩兵第4連隊(東京・青山北
騎兵 騎兵第1旅団司令部(習志野
近衛騎兵連隊(東京・戸山
騎兵第13連隊(習志野)
騎兵第14連隊(習志野)
砲兵 野戦重砲兵第4旅団司令部(東京・世田谷
近衛野砲兵連隊(東京・世田谷)
野戦重砲兵第4連隊(下志津
野戦重砲兵第8連隊(東京・世田谷)
工兵 - - 近衛工兵大隊(東京・赤羽
鉄道連隊 - 鉄道第1連隊(千葉
- 鉄道第2連隊(習志野・津田沼
電信連隊 - 電信第1連隊(東京・中野
飛行連隊 - 飛行第5連隊立川
気球隊 - 気球隊所沢
輜重兵 - - 近衛輜重兵大隊(東京・大橋

二・二六事件編集

1936年(昭和11年)2月26日、二・二六事件では近衛から叛乱将校クーデターに加わるも、昭和天皇は「朕自ラ近衛師団ヲ率ヰテ此レガ鎮定ニ当タラン(私自ら近衛師団を率いて彼らの鎮圧にあたる)」と発言した。

日中戦争編集

前述のように近衛師団は日露戦争以降長らく実戦経験がなく、盧溝橋事件勃発後にも出動命令が下ることがなかった。このことから、出動命令を受けた他の師団より「あれはおもちゃの兵隊さんではないか」と揶揄されることも少なくなかった。たまりかねた師団長の飯田貞固中将は昭和天皇と面会した折「将兵一同は皆出征を希望しております」と具申。天皇は驚いて「そんなに皆、出たがっているのか」と承諾した[7]。 こうして1939年(昭和14年)、日中戦争動員下令、近衛第2師団の前身となる近衛混成旅団となる。近衛混成旅団は第21軍隷下となり、南支那方面軍として広東に上陸する。近衛混成旅団は広東作戦南寧作戦翁英作戦は中止)に従軍し、南寧を包囲する国民革命軍と激戦を展開した。

仏印進駐編集

近衛混成旅団は第5師団台湾混成旅団とともに、第22軍隷下となり、仏印進駐を担当する。

近歩1・近歩2は、仏印進駐完了後は復員することとなる。この復員は、南支那方面軍が事実上廃止(第23軍に改組)され、印度支那派遣軍(司令官西村琢磨、歩兵団長桜田武)が復員するのと同時期である。

近衛混成旅団と印度支那派遣軍歩兵団は、両者とも桜田武が旅団長・歩兵団長として指揮をとったので桜田兵団と呼ばれていた。この桜田兵団が留守近衛師団の近歩6などと加わり、留守近衛師団から近衛第1師団となる。

一方、近歩3・近歩4・近歩5等は、太平洋戦争開戦以降、河田混成旅団長の近衛混成旅団から近衛師団として南方軍第25軍隷下として、タイを経て南方作戦マレー作戦に参加することとなった。

第二次世界大戦編集

上述の近衛師団は、太平洋戦争中は南方戦線で活躍し、1941年(昭和16年)12月8日から1942年(昭和17年)1月31日のマレー作戦には第25軍隷下として、近歩3・近歩4・近歩5及び近衛捜索連隊等が加わった。また、同年のシンガポールの戦いでも活躍した。

改編編集

1943年(昭和18年)6月1日に、オランダ領東インド(現在のインドネシアスマトラ島メダン方面で作戦中の近衛師団は近衛第2師団(2GD)に改称され、東京にあった留守近衛師団を基幹として近衛第1師団(1GD)が、更に1944年(昭和19年)7月18日には留守近衛第2師団を基幹として、近衛第3師団(3GD)が編成される。第二次世界大戦終戦時の近衛第3師団は千葉県成東(旧:山武郡成東町、現在の山武市)にあって連合国軍の関東上陸作戦本土決戦決号作戦)に備えていた。
近衛第2師団と近衛第3師団がそれぞれ作戦地に赴任していたため、本来の近衛兵としての任務は近衛第1師団が担当する予定であった。

宮城事件編集

1945年(昭和20年)8月14日未明にポツダム宣言受諾が決定し、それを昭和天皇自ら国民にラジオ放送を通じて知らせる「玉音放送」を放送することが決まった。8月15日未明に陸軍省軍務局軍務課課員らが近衛第1師団長森赳中将へ決起を促すが、あくまで昭和天皇の思し召しに従い終戦を受け入れる決意の固い森赳師団長はこれを拒絶する。拒否された将校らは、森師団長及び第2総軍参謀白石通教中佐を殺害し、偽の師団長命令を出して上番中の守衛隊を欺いて玉音盤を奪おうとするが、東部軍や近衛連隊長の同調を得られず失敗する。間もなく東部軍司令官田中静壱大将がこの叛乱を知り、叛乱将校を制止するとともに憲兵隊に逮捕を命じる。

のちにこの事件は半藤一利により『日本のいちばん長い日』として小説化され、二度にわたって映画化も行われた。

戦後編集

終戦時には近衛連隊でも軍旗奉焼・復員が行われた。

旧陸軍上層部は、占領が終わればいずれ日本は再軍備をすると予想し、ハンス・フォン・ゼークト将軍が実施したドイツ国防軍の再建方式に倣うことを計画した。かつてドイツでは第一次世界大戦敗北の後に、許容された治安部隊を少数精鋭の選抜者でかためて、全員に幹部教育を施して将来の拡張に備えた経緯があり、旧陸軍は宮城(皇居)の守護を任務とする近衛師団を温存し、再軍備の拠点にすることを策した。1945年(昭和20年)8月29日、約4千人の禁衛府皇宮衛士総隊を新設し、近衛師団のエリートを配置する構想が決定され、同年9月10日付で官制が交付されている。ほか、政府と旧陸軍は22万7千人の武装憲兵部隊の存続(後に2~6万人の武装警察隊に計画を縮小)も決定したが、同年10月11日になって連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)から「これらの申入れは好意的に考慮せられず」「警察力の員数、組織または武装の増強は目下のところこれを実施すべからず」との回答があり、計画は全て断念されることになった[8]

GHQの情報担当責任者のチャールズ・ウィロビー少将は、日本政府や旧陸軍からの軍事力温存の要請に好意的であったが、有末精三中将から「せめて禁衛府だけは残してほしい」と懇願された際には、「俺ははっきり言うけれども、こればかりはどうにもならん」と気の毒そうに断言している。1946年(昭和21年)3月、GHQより禁衛府と皇宮衛士総隊の解散を命じる指令が出されたことにより、近衛師団は幕を閉じた。この際に百数十人の衛士が、「無給で良いから皇居を守護させて欲しい」として、血判状を提出したが、これは却下されている[8]

戦後、近衛部隊の復活を提唱したのは右翼団体の大東塾であった。1952年(昭和27年)の血のメーデー事件を機に、皇居防衛部隊の創設を提唱するようになり、同年2月の機関紙『道の友』に「祖国の防衛は皇居の防衛より」との論説を掲載し、近衛部隊の早期復活を政府に要求した。同年11月7日には大東塾の影山正治塾長と長谷川幸男塾監が保安庁を訪問し、増原惠吉保安庁次長に皇居防衛部隊設置の第一回要望書を提出し、同年11月20日には木村篤太郎保安庁長官にも申し入れを行った。要望書は「皇居防衛部隊の設置は国土防衛の根基であるから、保安庁は万難を排して実現を期されたい。1.部隊は儀仗を兼ねて当面、3千名を適当とし部隊内から特別募集、特別訓練を行い、再精鋭部隊にする。2.宮中勤労奉仕参加の青年を優先採用する。3.皇宮警察は任務を別にして併置する」との内容であり、竹橋の旧近衛連隊跡に皇居防衛部隊を設置することを主張していた。大東塾はその後も近衛部隊の設置を求める要望を行っており、1952年12月までに計12回行っていた[9]

1955年(昭和30年)1月、防衛庁は皇居の防衛と儀礼の役割を担う部隊を、皇居近くの旧近衛師団司令部庁舎に一個大隊を駐屯させる方針を決定し、大蔵省の了承を得たことが報じられた[1]。部隊名は「竹橋駐とん部隊」に内定し、普通科(歩兵)一個大隊(約800名、装備は小銃、軽機関銃、重機関銃、バズーカ砲など)のほか、陸海空の各幕僚監部の通信隊、調査隊、音楽隊も配備する計画であった。防衛庁は当初、旧近衛師団の近衛歩兵第1連隊、近衛歩兵第2連隊の庁舎を使用するつもりでおり、警視庁警察学校に立ち退きを要求していたが、警視庁はこれを断ってきたため、その隣にあった旧近衛師団司令部及び同旅団司令部庁舎を使用することにし、当時の使用者であった労働省及び関東信越国税局に立ち退きを大蔵省を通じて交渉していた。木村篤太郎防衛庁長官は事実上の近衛部隊の新設について、「首都中心部の間接侵略に対処するためのもの」と説明したほか、防衛庁首脳部は「天皇は日本の象徴だからこれを守るのは自衛隊の当然の任務」「皇居の儀礼部隊と同時に官庁密集地帯のまもり」だとしていた[1]

この防衛庁の計画に対して警察当局は反対する姿勢を見せており、斎藤昇警察庁長官は「警察の面から言えば自衛隊のこの場所への新設は不必要だ」としたほか、江口見登留警視総監も「その話は前から聞いてはいるが、具体的な任務、組織についてはまだ何も分からないので今のところ全然白紙状態でなんともいえない」としていた。警視庁や皇宮警察内部では「自分たち警察で十分」との立場から防衛庁の計画に対する強い反対論が出ていた[1]

防衛庁が計画した事実上の近衛部隊である「竹橋駐とん部隊」は旧近衛師団司令部庁舎に設置されることはなく、計画は断念されている。なお、防衛省は2011年(平成23年)8月に、東京都心での大規模テロへの対処能力を強化することを理由に、数百人規模の新たな即応部隊である「対テロ初動部隊」を霞が関から3キロ圏内に新たな拠点を設けて配置することを検討していた[10]

防衛庁はその後も旧近衛師団司令部庁舎の使用にこだわりを見せており、1966年(昭和41年)には明治百年を記念して、旧近衛師団司令部庁舎に「国防に関係のある文化財」を収める「明治史料館」を設置する計画を立てていた。明治史料館には「最近自衛隊各部隊の史料館などに収集された旧軍時代と、それ以前の時代の資料約2万5000点の中から、旧藩時代の文書や教範、屯田兵の武器や服装、パレンバンにおける降下部隊の遺品や軍旗など、珍しい資料を選んで展示する計画」であり、明治時代に限らず太平洋戦争まで含めた旧日本軍の資料を展示する予定であった。元々、「明治史料館」構想は、はじめは「戦史館」または「中央史料館」として計画されており、国立の戦争博物館を設立することを目指していた。防衛庁は明治史料館を「自衛官の精神教育に資するとともに一般の人たちへの広報に利用しよう」と考えていた。ほか、防衛庁は明治史料館に当時アメリカから返還されて話題になっていた戦争画を受け入れることも画策していた[11]

上記のように防衛庁は旧近衛師団司令部庁舎が現存する数少ない旧軍関係の由緒ある建物であること、旧軍関係の武器、装備、衣服、勲章、教範などの資料2万5千点を旧近衛師団司令部庁舎を「明治史料館」に改装して一般に展示することを理由に保存を主張していた。しかし、北の丸公園の造成を担っている建設省は、北の丸公園には日本武道館科学技術館国立公文書館東京国立近代美術館しか作らないことになっていること、旧近衛師団司令部庁舎を取り壊して、皇居の森と一体となる植林を実施する予定であり、旧近衛師団司令部庁舎は「美観上、おもわしくない」として取り壊しを主張し、防衛庁と建設省が対立する事態となっていた。旧近衛師団司令部庁舎の保存は、日本傷痍軍人会や日本遺族会日本郷友連盟も1965年(昭和40年)頃から再三にわたり要望していた[12]。また、文化庁も旧近衛師団司令部庁舎を「明治の洋風建築として建築史上保存の価値があり、重要文化財に指定したい」と建設省に申し入れていたが、建設省は「美観をこわす」としてなおも取り壊そうとしていた[13]

近衛師団司令部庁舎は、1977年から2020年2月28日まで東京国立近代美術館工芸館となっていた。

師団長編集

近衛師団長
代数 補職日 師団長名 備考
1 明治24年(1891年)12月14日 小松宮彰仁親王  
2 明治28年(1895年)1月28日 北白川宮能久親王 台湾征討を指揮する。戦病死。
3 明治28年(1895年)11月8日[14] 野津道貫  
4 明治29年(1896年)5月10日 佐久間左馬太  
5 明治29年(1896年)10月14日 黒木為楨  
6 明治30年(1897年)10月27日 奥保鞏  
7 明治31年(1898年)1月14日 長谷川好道 明治37年6月大将昇任
8 明治37年(1904年)9月8日 浅田信興  
9 明治39年(1906年)7月6日 大島久直  
10 明治41年(1908年)12月21日 上田有沢 明治44年8月18日退任[15]
11 明治44年(1911年)9月6日 閑院宮載仁親王  
12 大正元年(1912年)11月27日 山根武亮  
13 大正4年(1915年)2月15日 秋山好古  
14 大正5年(1916年)8月18日 仁田原重行  
15 大正6年(1917年)8月6日 由比光衛  
16 大正7年(1918年)8月9日 久邇宮邦彦王  
17 大正8年(1919年)11月25日 藤井幸槌  
18 大正11年(1922年)2月8日 中島正武  
19 大正12年(1923年)8月6日 森岡守成  
20 大正14年(1925年)5月1日 田中国重  
21 大正15年(1926年)7月28日 津野一輔  
22 昭和3年(1928年)2月28日 長谷川直敏  
23 昭和4年(1929年)8月1日 林銑十郎  
24 昭和5年(1930年)12月22日 岡本連一郎  
25 昭和7年(1932年)2月29日 鎌田弥彦  
26 昭和8年(1933年)8月1日 朝香宮鳩彦王  
27 昭和10年(1935年)12月2日 橋本虎之助 二・二六事件では宮城警備を指揮する。
28 昭和11年(1936年)3月23日 香月清司  
29 昭和12年(1937年)3月1日 西尾寿造  
30 昭和12年(1937年)8月26日 飯田貞固  
31 昭和14年(1939年)9月12日 飯田祥二郎  
32 昭和16年(1941年)6月28日 西村琢磨 シンガポールの戦いを指揮する。
33 昭和17年(1942年)4月20日 武藤章 昭和18年6月1日近衛第2師団に改称
近衛第1師団長
代数 補職日 師団長名 備考
1 昭和18年(1943年)6月10日 豊島房太郎 留守近衛師団長から転じる。
2 昭和18年(1943年)10月29日 赤柴八重蔵  
3 昭和20年(1945年)4月7日 森赳 玉音放送盤を奪う叛乱計画に反対して殺害される。
4 昭和20年(1945年)8月15日 後藤光蔵 師団の復員を指揮した後に初代禁衛府長官に転じる。
近衛第2師団長
代数 補職日 師団長名 備考
1 昭和18年(1943年)6月1日 武藤章  
2 昭和19年(1944年)10月5日 久野村桃代  
近衛第3師団長
代数 補職日 師団長名 備考
1 昭和19年(1944年)7月18日 林芳太郎  
2 昭和20年(1945年)5月23日 山崎清次  

参謀長編集

近衛師団
近衛第1師団
近衛第2師団
近衛第3師団

近衛師団に属した軍人編集

最終所属部隊編集

以下は近衛歩兵連隊のみ。

脚注編集

[脚注の使い方]

注釈編集

  1. ^ 宮内省皇宮警察禁衛府皇宮警察部、皇宮警察署、皇宮警察局、警視庁皇宮警察部と変遷を経て、警察庁附属機関である皇宮警察本部となった。

出典編集

  1. ^ a b c d ““近衛部隊”復活か 今秋・師団跡に 果然、各界に批判の声”. 読売新聞. (1955年1月31日) 
  2. ^ 一族や郷土の誇りとして、縁談が多く舞い込み地元の名士から一席設けられることも多かった
  3. ^ 「天皇の護衛を掌る部隊のため、主に美男子が採用された」という証言が広く聞かれるが、元近衛兵によっては「必ずしも美男子が多かったわけではない」と証言している者も居り、はっきりしない。
  4. ^ 『官報』第8079号、明治43年5月30日。
  5. ^ 『官報』第1766号、大正7年6月22日。
  6. ^ 作表は昌弘社 編輯部「最新百科知識精講」昌弘社、1930年(昭和5年)、741頁の資料に基づいた。
  7. ^ ノーベル書房編集部編『陸軍郷土歩兵聯隊写真集 わが聯隊』 ノーベル書房、1979年。p93,95
  8. ^ a b 秦郁彦 『史録 日本再軍備』 文藝春秋 p.42-44
  9. ^ 堀幸雄 『戦後の右翼勢力 新装版』 勁草書房 p.146
  10. ^ “都心に「対テロ部隊」霞が関から3キロ圏内、数百人規模”. 産経新聞. (2011年8月17日) 
  11. ^ 成田龍一 (編集), 吉田裕 (編集) 『記憶と認識の中のアジア・太平洋戦争――岩波講座アジア・太平洋戦争 戦後篇』 岩波書店 p.134-136
  12. ^ “また「赤レンガ」存廃論争 旧近衛師団司令部 建設省 防衛庁”. 朝日新聞. (1968年4月4日) 
  13. ^ “文化庁も取りこわし反対 旧近衛師団司令部 建設省 美観こわすと譲らず”. 朝日新聞. (1968年9月14日) 
  14. ^ 『官報』第3711号、明治28年11月9日。
  15. ^ 『官報』第8449号、明治44年8月19日。
  16. ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』22頁。
  17. ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』30頁。
  18. ^ 『官報』第3993号、明治29年10月19日。
  19. ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』30頁。
  20. ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』53頁。
  21. ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』49頁。
  22. ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』69頁。
  23. ^ a b 『官報』第6860号、明治39年5月15日。
  24. ^ 『官報』第7932号、明治42年12月1日。
  25. ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』75頁。
  26. ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』93頁。
  27. ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』99頁。
  28. ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』103頁。
  29. ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』115頁。
  30. ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』122頁。
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  33. ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』171-172頁。
  34. ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』170頁。
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  38. ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』230頁。
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  40. ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』311頁。
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  55. ^ 『帝国陸軍編制総覧』1121頁。

参考文献編集

  • 外山操・森松俊夫編著『帝国陸軍編制総覧』芙蓉書房出版、1987年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。

関連項目編集