東京日日新聞

東京日日新聞
種類 日刊紙
サイズ ブランケット版

事業者 (日報社→)
株式会社大阪毎日新聞社東京支店
(現・株式会社毎日新聞社東京本社
本社 (東京府浅草茅町1-24[1]→)
(東京府日本橋元大坂町新道→)
(東京府浅草瓦町16番地→)
(東京府東京市京橋区尾張町1-1→)
東京市麹町区有楽町1-2[2]
創刊 1872年明治5年)2月21日
廃刊 1942年昭和17年)12月31日
(以降は大阪毎日新聞と合同、題号を『毎日新聞』に統一して現在も継続中)
言語 日本語
  1. 東京日日新聞(とうきょうにちにちしんぶん)は日本の日刊新聞である『毎日新聞』(まいにちしんぶん)の東日本地区の旧題号で、現在の毎日新聞東京本社発行による毎日新聞の前身にあたる。略称は「東日」(とうにち)。
  2. 東京日日新聞(とうきょうにちにちしんぶん)は毎日新聞社の傍系企業であった東京日日新聞社が昭和20年代に東京都で発行していた夕刊紙。略称は同じく「東日」(とうにち)。

歴史

現・毎日新聞

東京日日新聞は1872年明治5年)2月21日条野伝平西田伝助落合幾次郎が創刊した東京最初の日刊紙。当初は浅草茅町(現在の浅草橋駅近辺)の条野の居宅から発刊したが、2年後銀座に社屋を建てて進出。雑報入りの「新聞錦絵」が東京土産として話題を呼んだ。1873年(明治6年)、岸田吟香が入社し、平易な口語体の雑報欄が受け大衆紙として定着するも、1874年(明治7年)入社と共に主筆に就任した福地源一郎が社説欄を創設してから、紙面を一新。政府擁護の論陣を張る御用新聞となり、自由民権派の政論新聞と対抗した。桜痴(福地源一郎)の社説、 吟香の雑報、それに成島柳北の雑録が、 この新聞の三大名物と謳われた。この時に校正主任として招かれたのは、語学者で福地とともに遣欧使節団に加わった経験のある市川清流である。

しかし、1880年(明治13年)頃から政府批判の高まりとともに「御用新聞」との批判も強まった。1888年(明治21年)、社長交代を契機に論調を中立路線に転換し大幅に部数を伸ばすが、1891年(明治24年)に長州藩閥の機関紙と化し、再び政府寄りとなる。その後伊藤博文井上馨三井財閥の支援を受け、1904年(明治37年)には三菱財閥により買収。加藤高明が社長に就任するが経営不振は打開されず、1911年(明治44年)に『大阪毎日新聞』(おおさかまいにちしんぶん)の社長・本山彦一が『東京日日新聞』を買収して東京へ進出した。

『大阪毎日新聞』は明治初期には政治色が強かったため経営上振るわなかったが、1889年(明治22年)から穏和な論調に転換、広告収入の増加もあって『朝日新聞』と並ぶ関西の有力紙となっていた。

第一次世界大戦の勃発を他紙に先駆けて報道。ロシア革命の報道やレーニンの会見でも注目を集める。シベリア出兵には慎重論をとり、国内問題では米騒動などの社会問題も取り上げ、普通選挙運動にも賛成の立場をとったが、同様の論調をとる東西『朝日新聞』と覇権争いを全国的に繰り広げた。こうした動きは結果的に両社の発展につながったと言える。

業績を回復した『東京日日新聞』は、大正期には東京五大新聞(東京日日新聞・報知新聞時事新報國民新聞東京朝日新聞)の一角に数えられ、1923年大正13年)9月1日に発生した関東大震災も大毎のバックでこれを乗り切った。震災報道では朝日陣営の後手に回ったが、報道そのものは東京日日の方が評価が高かったとされる。1926年 (大正15年)12月25日には光文事件の失態を犯す。この後、東都新聞界は大阪資本の朝日・東日の二強体制となり、1929年昭和4年)には『國民新聞』主筆の徳富蘇峰が移籍。1936年(昭和11年)には『時事新報』を合同した。1939年(昭和14年)、東京・有楽町に完成した新社屋には当時東京でも珍しいプラネタリウム東日天文館」が設置され、壁面には電光ニュースがまたたいた。[3]

太平洋戦争(大東亜戦争)中は他紙と同様、戦争翼賛報道を行った[4]

1943年(昭和18年)1月1日、東京日日新聞と大阪毎日新聞は新聞統制により題字を『毎日新聞』(まいにちしんぶん)に統一。編集機能を東京に集約して、名実共に全国紙となった。明治初期から長年続いた伝統ある「東京日日新聞」の題字は一旦消滅した。(以降、毎日新聞参照。)

夕刊東京日日新聞

太平洋戦争後の1948年(昭和23年)12月4日に、毎日新聞社の系列会社である東京日日新聞社による新興夕刊紙として「東京日日新聞」が“復刊”した(題字は復活したが、号数は1号から数えていた)。
復刊(新創刊)の背景として、終戦直後の用紙統制が既存紙よりも新興紙に多く割り当てられる事が挙げられる。このとき勃興した新興紙として1945年12月に民報社より「民報」が創刊され、1947年8月「東京民報」に改題した後、民報社は鈴木郁三に買収され、更にその鈴木が毎日新聞社と手を組んだことで「東京民報」は1948年11月30日をもって終刊。民報社が東京日日新聞社と改称して「東京日日新聞」を新創刊した。
既存紙もダミー子会社を設立して用紙を確保しようと腐心していた時期であり、毎日新聞社もまた新興紙の買収といった形で東京日日新聞を復刊(新創刊)したのであるが、翌1949年(昭和24年)11月27日に毎日新聞東京本社による夕刊紙「夕刊毎日新聞」の発行(1951年(昭和26年)10月1日毎日本紙の夕刊に切り替え)で競合したため、内容を娯楽物中心に変更。高田保の時事エッセイ「ブラリびょうたん」の企画が好評を博した。1954年(昭和29年)9月1日より朝刊紙に転換したが退勢を挽回できず、1955年(昭和30年)8月31日をもって休刊となった。

東京日日新聞社は編集局を有楽町の毎日新館に置き、印刷も毎日新聞東京本社に委託したが、既存の会社を買収した経緯から会社組織そのものは全くの別会社を装っており、資本構成に毎日新聞社の名はなかった。その後、毎日新聞社、サン写真新聞社スポーツニッポン新聞社とともに連名でイベントを開催するようになったが、逆に印刷は東京日日新聞印刷工場港区に設立して独立した。
この新生東日の紙面構成は一日概ね4頁で、1面は総合面(政治経済)であり、毎日新聞夕刊に引き継がれる「近事片々」も戦前に引き付き掲載されていた。2面はスポーツと家庭面であり、毎日新聞主催の都市対抗野球選抜高校野球プロ野球毎日オリオンズの記事が多く掲載された。3面は社会面であり、正真正銘の「三面記事」が載った。4面は芸能面で映画演劇が主だが、放送番組を扱う場合は主としてラジオ東京(JOKR)の記事が多く載っていた。

沿革

現・毎日新聞

夕刊東京日日新聞

紙齢

現在の東日本の毎日新聞(東京本社・北海道支社発行)の紙齢(創刊からの号数を示すバックナンバー)は、東京日日新聞時代からの物を加算している。1987年(昭和62年)8月30日付で、日本の日刊紙では初めて紙齢40,000号を達成した。

題字

社旗と社章

発行所の変遷

脚注

  1. ^ 現・東京都台東区柳橋1-13
  2. ^ 現・東京都千代田区有楽町1-12-1
  3. ^ この天文館は1951年(昭和26年)、ラジオ東京(現在のTBSラジオ)のスタジオに転用された。
  4. ^ 一例として上海事変中に敵陣に突入爆破した日本兵士を爆弾三勇士と称して勇者とし、歌まで作成して煽った。
  5. ^ 大阪毎日新聞社が時事新報社を合併したのではなく、同社より営業権を購入した。なお、時事新報の合同は「東京日日新聞」であり、「大阪毎日新聞」は対象外であった。

関連項目