諏訪頼意

日本の江戸時代中期の武士・俳人。信濃諏訪藩家老諏訪盛住の子で、諏訪図書家4代当主。家老を勤め、俳人としては水間沽徳に師事

諏訪 頼意(すわ よりおき)は、信濃諏訪藩家老。諏訪図書家第4代。

 
諏訪頼意
時代 江戸時代
生誕 不明
死没 享保11年8月2日1726年8月29日
改名 頼任→頼意
別名 主計、図書、大学(通称)、樗材(俳号)
幕府 江戸幕府
主君 諏訪忠晴忠虎
信濃諏訪藩家老
氏族 諏訪氏
父母 父:諏訪盛住、母:諏訪忠恒養女(大久保長重の娘)
兄弟 頼意、頼当、頼堯、土岐頼邑、頼超、松賀孝興
座光寺正朝養女(宮崎清太夫の娘)
頼記頼弟
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家系

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諏訪図書家は、初代藩主・諏訪頼水の弟・頼雄に始まる家で、高島城二の丸に屋敷があったことから、二の丸家と呼ばれる。

生涯

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諏訪藩家老・諏訪図書家第3代盛住(頼及)の長男として生まれる。母は、旗本大久保長重の娘で、藩主・諏訪忠恒の養女。延宝8年(1680年)、盛住の隠居により知行、1,200石の家督を相続する。

天和2年(1683年)、藩主・諏訪忠晴幕府より越後国頸城郡検地を命じられ、その奉行を務めた。天和3年(1683年)、検地の功績により、江戸城に登城し老中大久保忠朝出座の上で、時服と白銀を賜った。元禄4年(1691年)、忠晴が幕府より大坂加番を命じられ、その供をする。

正徳4年(1714年)、病により隠居し、家督を長男の頼記に譲る。享保2年(1717年)8月、頼記が早世したため、その弟の頼弟が跡を継いだ。頼弟の子が、二の丸騒動で永牢となる頼英である。

享保11年(1726年)8月2日、死去。

人物

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藩主・諏訪忠虎が伯父・内藤風虎の影響で俳諧に熱心で、頼意も共に水間沾徳に俳諧を学び、樗材と俳号を名乗った。

参考文献

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  • 諏訪教育会『諏訪史年表』
  • 諏訪教育会『諏訪資料叢書第27巻』